ヒロコアラカ記

Hiroko Arakaki / アラカキヒロコ の公式ブログ

がんのはなし #4 - うろたえながら現実を味わうの巻

※直腸がんにかかった筆者の体験記録のシリーズです。今回の記事は、人によっては心理負荷の高い内容を含む可能性もありますので、がん治療や妊娠出産にまつわる話題に触れてフラッシュバックが起こりそうな方はご注意ください。前回記事は がんのはなし #3 - おめでた、そして告知の巻

 

告知の日〜総合病院バージョン

「あれっ、一人で来たの?」
診察室のドアを開けると新主治医のFちゃん先生が言った。がんの告知から3日後、この日は私の治療のホームが総合病院に移って最初の診察日だった。
診察室にはもう一人、やわらかい雰囲気のにこにこした看護師さんが佇んでいた。「がん看護専門看護師」のHさんです、と紹介される。はじめまして。
Fちゃんが続ける。
「今後の治療の方針を決めないといけないから、夫婦の確認を取りたいんだよね」

我々夫婦の収入源は音楽業の割合が大きい。演奏仕事がコロナ禍で激減しているが、この日は夫(ベーシスト)によい仕事が入っていた。
「今日は大事な仕事だったから、行ってきて、って送り出しちゃいました。一応夫婦で話し合って私の命を優先して治療するってことで合意してるけど……」

Fちゃんは安定感と適度な明るさがあり、且つ淡々としている。もったいぶったりしない人なので早速本題へ入った。
「直腸のがんだけど、ステージⅢ以上だと思われます。初期ではない」

なんだと。

がんはステージⅠ〜Ⅳまであり、Ⅲ以降は「進行がん」だ。いったい私は何年かけてそこまで育てたのか。
曰く、数週間放っておいても大きな変化は起こらないだろうが、数ヶ月放っておけるものでもない(命にかかわってくる)。治療を進めるには、転移があるか、あるならどこか、まずCT含め早急に検査して詳細の把握が必要。
それと、CTを撮ると母体も赤ちゃんも被爆する。今回撮るCTの胎児への影響は一応2回までは大丈夫と言われているが障害などが残る可能性もある。そうでなくても治療を進める途中で流産する可能性もある。そしてそもそも患部が子宮の真裏なので、妊娠したままだと子宮の肥大で手術ができない。そのため、がんの手術は中絶手術をした上ですることになる。なので、それでいいのか確認を取る必要がある、と。
つまり、妊娠継続しながらのがん治療は難しいということだ。
なんでよりによって子宮の真裏なの、と思った。
しかし、子宮の真裏じゃなければ良かったかというとそういうわけでもない。要は、出産を待つ余裕がないほどがんが進行していたことが問題だった。

「今日は他に採血と、あと産婦人科にも行ってもらおうね。終わったらまたここへ戻ってきて」とFちゃんが言った。

 

Hさんにケアされながら

私が診察室を出ようと立ち上がると、Hさんが「少し、私とお話しましょう」と隣の部屋に案内してくれた。
那覇市立病院のような「がん診療連携拠点病院」には「がん相談支援センター」が設置されており、Hさんもそこのがん看護専門看護師だった。がんにかかった患者の心理的ケアや質問などを電話対応も含めサポートしてくれる。

「手術後に抗がん剤治療をすると、生殖機能(卵巣)がダメージを受けてしまうので、その"妊孕性(にんようせい=妊娠する力)"を温存するための選択肢があります。胚(受精卵)や未受精卵の凍結保存をするんですが、ちょうど今年から県の助成金が出ることになったんですよ。検討してみてくださいね」
そう言ってHさんは「沖縄県 がん患者等妊よう性温存療法研究促進事業のご案内」と書かれたA4のチラシと、琉球大学病院が出している「おきなわ がんサポートハンドブック」を渡してくれた。

「私も、がんにかかったんです」にこにこしながらHさんが言った。
え、と目を見開いてしまう。ちょうど私ぐらいの年齢の時に経験されたサバイバーだという。Hさん、ただでさえ菩薩のような雰囲気だが、経験者と聞くとさらに信頼感が増すものだ。心が音を立てて開く。
抗がん剤か、やんなきゃだめかな。示してもらったがん治療、妊孕性温存療法も抗がん剤も中絶手術が前提なんだな。赤ちゃんは産まれる前提で来てくれたのに』菩薩のHさんと話をするうちに気が緩んだ。「赤ちゃん、かわいそうで」とぽろっと言った途端、涙がボロボロ出てきて止まらなくなってしまった。あぁ、告知を受けた患者として泣く図、やだなぁ、しかも初対面のHさんの前で……と、めんどくさい自意識がなにやらゴチャゴチャうるさかったが無視して嗚咽した。思いのほか私は深く傷ついていたのかもしれない。Hさんは隣で「うん、うん」とただ見守っていてくれた。
私はHさんに渡してもらったティッシュで涙と鼻水を拭き、部屋を出た。マスクで顔を隠せるご時世で良かった、と思った。

まずは採血へ。
その後、仕事が早く終わった夫が病院に到着し、合流して産婦人科へ。産婦人科は、すでにFちゃんから情報が共有されており話が早かった。
エコーの確認では、赤ちゃんは4〜5週ではないかとのこと。まだ心音が聞こえていない。中絶手術をする場合は心音が聞こえてからだという。鼓動が聞こえるほど赤ちゃんが人間らしく育ってからなのか、と思うと重たいパンチを喰らった気分だった(のちに理由を調べたら、心音確認前の中絶は取り出したものの確認が難しく妊娠が続いてしまうことがあるため、とのことらしい)。
産婦人科のM先生と看護師さんたちは、事前に私の状況を話し合って検討してくれていた。心なしかここの医療スタッフはみな親身でそして仕事が早い。
ただ、やはり結論はFちゃんと同じだった。
そうなのか。本当に中絶手術しかないのだろうか。
夫と考える。
夫のいとこに血液がん治療のエキスパートのS先生がいる。Sちゃんは妊娠継続しながらこのがんを治療できる最新の医療情報を持っていたりしないだろうか。ダメ元でも訊いてみよう、と夫がメッセージを送ってくれた。

本日最後のFちゃんの診察室、今度は夫婦で入る。そして胸の内を告げた。
「二人とも、中絶して治療する方向で心算はできてます。だけど、今日の今日なので、もう少しだけ時間をもらいたい。もう一人念のため情報を訊きたい先生もいるし」
もちろん、とのことで、次の診察は1週間後に決まった。

 

下がったり、上がったり

帰宅。流石に夫婦ともども憔悴していた。
すごく悲しくて、抱き合って二人で長いこと泣いた。
こんな気持ちは生まれて初めてだった。せっかく来てくれた赤ちゃんを迎え入れてあげられないばかりか、自分にも死が臨場感を伴って迫ってきている。

意見を訊きたかったSちゃん先生からも夫に返信があった。
やはりFちゃんと同じ見解で(のちに、先輩が画像診断の専門医の方に状況を相談してくれたが、そちらも同じ)、がんの専門医含む4人の医師が同じことを言っていた。ああ、私の命を守る行動を取りたいなら現代医療では妊娠継続は無理なのだ、とようやく悟る。

夜、横になると、自分の人生が失われる恐怖にとらわれた。
遠い昔、メンタルが絶不調だった青少年期に「自分が初めから存在しなければよかった」と思い詰めた時期があった。そんなふうに自分を生きるやり方がわからず疎外感や罪悪感に苛まれるのも苦しかったが、逆に生きることの喜びを知り、幸せを感じてからそれを奪われんとする理不尽な絶望感もなかなかのものだ。
そして、未来の心配事が頭を駆け巡った。
夜に考え事をしてもロクなことがない。わかっているが、浮かんでくる。
私が死んだら、と。
老老介護中の両親は、一人娘に先立たれてこの先どんな気持ちで、どんなふうに暮らすのか。引き継ぐ予定の実家の土地やアパートの運用はどうなるのか。
夫はきっと「大丈夫、全部任せて」と言い出しそうだ。でも彼は長男だし、故郷はここ沖縄から遠く離れた群馬だし、そして強く見えるが本当はとても繊細な人だ。うちの両親や不動産のことを本当に丸投げしてよいものか。急にすべてを抱え込み、残された私の遺物のそばでどんな思いで過ごすのか。リン(愛犬)は心の支えになるだろうが、やっぱりつらいだろうな。何かよい手立てを考えなければ。
彼には私に縛られず自由に生きて、とにかく幸せでいてほしい。死ぬ間際になれば私にも「愛する人がまたできたら、その人と生きるんだよ」とか言う覚悟ができるだろうか。ていうか、自分の死に伴う問題を真面目に考えるのはこんなにも悲しいのか。つらつら。

今まで主導権を握っているとばかり思っていた人生が急にブラックホールのように謎めき恐ろしくなった。存在が不確実に、薄くなりゆく自分はまさに風の前の塵に同じ。現実は幻なのかも。この部屋も、隣の夫も、本当に春の夜の夢なのかも。
前日までの楽観的な思考に戻りたいのに戻れず、悲観の権化となり焦り散らした。

とはいえ、同時に自分の一角がそんな絶望の感覚に抵抗してもいた。
それは「生きたい」という欲求よりは、単に「腑に落ちない」モヤモヤで、『そりゃあ人はいつかは死ぬさ。でもなんか私、今のはずじゃない感じがするんだけどなぁ。おかしいなぁ……』というような根拠のないただの違和感なのだが、その往生際の悪さもまた生きたい気持ちの表れだろうか。

翌日、何か検索していた夫が突然愁眉を開き「大丈夫だ、大腸がんの患者さん、ステージⅢでも平均生存率70%だって!」と言った。彼はそう言いつつも、不安に抗っているらしく『楽観はしないぞ』的な空気を醸している。
そもそもその数字は何年生存率なのか、どんな母数の定義なのか知らないのだが、私はその言葉で『そうか、すぐには死なないんだ!』と心の奥底が楽観モードに切り変わったのだった。あんなに生気を失っていたくせに我ながら現金だなと思う。暗闇の中では小さな光が輝いて見えるのだ。
余命数週間と急に言われたらパニックだ。半年でもイマイチ死を受け入れる準備と覚悟ができる自信がない。死は急に来るとその衝撃に耐えられないが、もっとゆっくりなら話は別だ。(死のショック度)=(致命度)×(死が近づく加速度)という方程式をぼんやり考えてしまう。F=maのような。

とにもかくにも、たぶん私の死の前には思うより時間があるのだ。Fちゃんも、数週間放っておいても大きな変化はないはずと言っていたではないか。無知からくる恐怖で最悪の想定をしすぎるのはやめよう。そんなふうに思い直した私だったが、自分の体ではなく為す術のない夫は私以上に感情が揺らいでいるようだった。こんなとき心を落ち着けるには、やはり「わからない」を消していくことが有効らしく、夫はがんの情報収集に勤しみ、みるみるうちに詳しくなっていった。

変化してゆくこと

さらに翌日。
私たちは奇しくも、大腸がんで亡くなったとある先輩ミュージシャンKさんの(ゆかりの人々がかわるがわる演奏する追悼ライブ的な)お別れ会へ出席した。夫も3曲ほどベースを弾く予定だった。
私はピアノを弾きながら歌ったりする人間なので、ときどきKさんの代打でホテル演奏をしていたご縁があり、当初は聴くだけの予定だったが「My Favorite Things」だけ歌ったら、と言われ参加させてもらった。
そして、この時のステージで見えた景色はそれ以前のあらゆる演奏体験とまるで違っていた。

時を経てだいぶマシになったが、私はわりと舞台上で気が散るタイプで、『お客さん今どう思ってるかな』『間違えてメンバーに迷惑かけたらどうしよう』などと少し気を抜けばついつい邪念が湧く。
だがこの日ステージに登ると、人格が変わったように心が凪いでいた。皆が自分をどう思っているかにもう興味がなく、同時にステージ上のメンバーの様子もよく見えた。客席一人一人の存在を感じて、歌うことを味わう。お腹の赤ちゃんにも味わってほしいと思った。こんな感じで歌ってみんなと音を合わせるよ、と。そういったすべての感覚がとても自然に自分の中を通り抜けていった。要は、力が入っていなかった。

演奏中、ソロを回している時に、近くにいたサックスのAさんに「テーマに戻って終わろう」と言われたので、私はステージをつかつか横切り、カミテでベースを弾く夫にそれを伝えに行った。
いたってなんでもない、たとえば、右隣の友だちに「今週末台風みたいだからビーチBBQ延期ね」と言われ、左隣のよく聞こえなかった様子の友だちにそれを伝える、ぐらいのコミュニケーションだが、以前の私ならばこういう場面でさえ内心あたふたしていたのを思い出す。
いやはや。求められてもいない気を絶えず回す必要はなく、できることをやればよかったのだ。演奏も会話も同じだ。今までなぜよく解らなかったのだろう。

こんな事態にならないと気づかないのも何だかな、と思うのだが、死が強く意識されると大抵のことがどうでもよくなったのだった。自分にとって本当に大切なものは片手に収まるくらいしかないし、それさえあれば十分だ。

Kさんの遺影に会釈をしてステージを降りた。
この日の経験はずっと記憶に残るかもしれない。

進行がんだと告知されてからの数日間は確かにどん底だったが、ただ単にどん底というわけでもなく、その中にも一喜一憂がある。そして「それまで見えなかった景色、世界が見えるようになる感覚」は、なんというか、ありがたい。書いて字の如く「有り難い」視点を得る感覚だ。
がんになって、とんでもなくつらい時間にも直面したが、それも含めて初めての気持ちを知ることができる。すると初めて見える世界がある。そして、自分の人生に向き合うことを余儀なくされるから自分にとって本当に大事なものが見える。そういったプロセスの只中にいると「生きている」と感じる。
自分の状況を悲劇と認識したりしなかったりしているのも結局自分なのだと思う。

なんでがんになったんだろう。赤ちゃんに対する気持ちの折り合いはどうやってつけよう。などなど疑問は湧き、現実を前に心がザワついた。未知の気持ちは不安だ。でも逆に、この先何をして、何を考え、何を感じるか予測できるコントロールされきった未来だと正直つまらないし、そんなの、何しに生まれてきたかわからない。
それなら、うろたえながら好奇心を持って経験を素直に味わえばいいのかもしれないと思いながら、告知直後の濃い日々を過ごし始めたのだった。


(続く)

 

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