カンヒザクラの季節に
先週は、先日生まれたばかりの次女がRSウイルスに感染し真っ青になって小児科を受診、昼夜看病していた。といっても、見守りや授乳ぐらいしかしてやれることがないのだけれど。
わりとクールだと思っていたかかりつけの先生がたいそう心配していて、「明日も来てください」と言われるたびにRSVが低月齢の赤ちゃんにとって脅威であることを実感する。
長女が保育園に通い始めて間も無いため、いま我が家は怒涛の風邪の洗礼を受けているところだ。RSVも最終的に家族全員感染し、皆しつこい鼻詰まりに悩まされることになった。
先に感染して回復した長女は元気に保育園に登園していきひと安心するも、まだ寝返りも打てない次女の方はベッドに寝かせると鼻水で苦しがる。タオルで傾斜をつけても寝られず泣くのだが、抱っこだと不思議と寝る。窒息や容体の急変が心配なので私自身も深く寝入りたくないし、何日かは一晩中抱っこして様子を見ていた。
夫の話ではうちの裏庭のカンヒザクラが咲きそろったという。長女が生まれた頃や1歳の頃は抱っこして一緒に見に行ったのに、状況が状況なのでそんな余裕もなく、また寒い日が続いていたし病み上がりと闘病中の子らには厳しいから行けないな、とちょっぴり切なくなる。
そうこうしているうちに次女の容体が安定してきた。先生に「もちこたえたね」と言われた朝はすごくホッとして、帰って夫にそう伝えたら泣いていた。
昔は今ほどワクチンもなく、はしかや結核をはじめあらゆる病気の罹患を回避しあるいは乗り越えた子だけが大人になっていたのだ。なんと言ってよいかわからない気持ちになる。
その翌日には、なんだか急に晴れて過ごしやすい気候になったので、次女を抱っこして桜を見せに行った。次女は家を出る時は目を開けていたのに桜の場所に着く頃にはポカポカ陽気のせいか眠ってしまって、起こしても起きなかった。
世間ではミラノ・コルティナ冬季五輪が開催中で、ふと気づくと毎回観ている男子スノーボードのハーフパイプも日程が終わっていた。
ハーフパイプに興味を持ったのは平野歩夢選手がきっかけだった。ソチだったか、ランを観ていて惹きこまれ、ハーフパイプって面白いんだなぁと思った。
見逃し配信で決勝を確認し、試合のレベルの高さにおののく。ボードを使うとはいえ、生身の人間って空を飛んだり回転したりこんなにできてました?戸塚選手や山田選手、平野流佳選手もとんでもなく素晴らしかったけど、やはりファンとして平野歩夢選手のランに震えた。というのも、27日前に骨盤骨折&両膝の感覚も戻らない中決めてきた過去最高ルーティン、人間業ではなかった。生放送だったら逆に怖すぎて観られなかった気もする。ランのあとの静かな受け答えも含め神々しささえあり、おそらくいま一日の中で最も長い時間を過ごしているソファに座って、眠る次女を抱っこしながら画面を眺めて涙した。生きて戻れて本当によかったねえぇぇと震えた。そして、たいしたことでなくていいから挑戦することを忘れずにいなければ、などと身が引き締まった。
そう、私はなんだかずっとソファにいる。
実はRSV騒動の前にも、出産して退院後1週間ほどの時に長女が風邪で発熱した。新生児だった次女はそのときから家族の寝室ではなくリビングのベビーベッドに退避、そして私もその傍のソファで昼夜授乳をしながら仮眠をとる生活が始まった。そして、そのときも結局次女を含め家族全員が感染した。
その風邪が落ち着いてきて、今度は新たにRSVがシェアを独占していたというわけだ。
ソファで1ヶ月細切れで寝ているのでなんだか疲れが取れず、もちろん鼻づまりも取れない。よくよく思い返してみたら、去年の12月からずっと鼻がつまっている。娘が保育園に通いはじめて数週間ぐらいのときにひいた風邪をもらった。鼻づまりが数週間続き、もはや副鼻腔炎なのではと疑い始めたときに出産、分娩中も鼻が詰まって鬱陶しかったので先生にカルボシステインを処方してもらって、ようやくよくなってきたところで感染、そしてまた感染。
しかしそれも落ち着いたわけで、そろそろ家族の寝室で次女も一緒に普通の寝具で寝たいと思っていたのだが、園から帰ってきた長女が咳き込み見事な鼻水を出していて絶望している。まあ、いつかは終わるのだから。
うちのカンヒザクラは、満開を少し過ぎたところです。




次女が誕生したこと
遅ればせながらあけましておめでとうございます、と書いた下書きを投稿できないまま気が付けばあまりにてんてこまいの1月が終わっていました。
みなさまの2026年がどうかよい日々となりますように。
先日、次女が誕生しました。
促進剤も使わず、切開もせず(裂傷はあって縫合したけど一番軽度)、分娩所要時間6時間5分、先生や助産師さんたちお墨付きの超安産を牽引してくれた頼もしい娘です。
元気に生まれてくれてありがとう。
気にかけてもらった遠く近くの家族親戚や友人たちに、そして何より、今回も立ち会い細やかに助けてくれた夫、そして母に感謝しています。私がいない間の長女のお世話を夫と母が頑張ってくれて、家族の助けが身にしみた入院期間でした。
それは退院した今もそうで、子育ては1人でやるものではないことを痛感しています。まわりの大人みんなで、なんなら町で育てるぐらいがホモ・サピエンスにはフィットしているのでしょう。愛聴しているコテンラジオでも昔そんな話があったような。
お産は長女と同じ那覇市立病院、今回はできたてピカピカの新病棟(嬉しい!)のLDr室にて。先生や助産師さんたちは2年ぶりにお会いする方もいてちょっと懐かしい。
長女の分娩を担当してくれた産婦人科医、予備校時代からの友人なっちゃんが今回も手袋をはめてLDr室に来てくれたのですが、産んでいる最中に気配がないなと思っていたら、本人曰く「水を買ったりして30分弱ほど外出して戻ってきたらもう生まれてた!!」とのこと。
思えば前回のお産は2日間促進剤を投与して予定日を3日過ぎての難産。正常分娩だったものの(本陣痛に乗り切れない前駆陣痛の波の中を長らく彷徨う)、赤ちゃんにも苦しいサインが出ていて一時帝王切開の準備をする局面もあったり吸引にも助けられたりして疲労困憊の状態で出産。
対して今回は予定日前。規則的な陣痛が来たので夫を起こし早朝に病院へ連れていってもらったところ、まだ前駆陣痛だったものの破水していたと判明。その後9時頃には本陣痛に入り、あれよあれよと進み昼過ぎには生まれていました。
今回の分娩の担当医U先生やなっちゃん、他の先生や助産師さんたちも、関わってくださったスタッフの方々が全員フレンドリーで親切で恵まれていたと感じます。このブログに以前登場したがんの主治医Fちゃんや、別のドクターで高校の同級生Rちゃんも産科病棟まで様子を見に来てくれたりして。2回の出産を那覇市立病院でできて本当に良かった。
ところで、私はどうやら安産だと痛みも軽くなると思い違いをしていたようで、難産だろうと安産だろうと陣痛が心が折れるレベルに痛いのは変わらんことを知りました。痛みをコントロールするヨガの呼吸法とかを習得しておけば良かった、などと遅すぎる後悔をしつつ繰り返しやってくる激痛にただ耐えるわけですが、経産婦になったことでむしろ『今、赤ちゃんの頭が膣口に挟まっているから皮膚が引っ張られて裂けそうだから痛い』のように痛みや恐怖の具体性と解像度が上がってさえいました。呻きすぎて声が枯れ、翌日は認識していなかった場所も含めいろんな部位が筋肉痛に。胎盤を娩出するお腹ぐりぐりマッサージも初産よりだいぶ痛かったし、前回意識しなかった後陣痛も今回は1週間ぐらいはロキソニンに頼りました(特に授乳時)。とにかく、なんかいろいろ痛かった…!
入院中泣けたのは、今まで私の添い寝で夜寝ていた長女がママ抜き生活に戸惑いながらも頑張って順応してくれたことでした。
次女の妊娠の影響もあって急に卒乳を余儀なくされ、朝起きたら出産に伴う入院で急にママがしばらく不在、そしてママが戻ってきたらもう一人っ子ではなくなり。ごめんね…と思ったりしますが、思い入れているのは親の方で、子どもは親が思うよりきっとずっと逞しいのでしょう。
自宅の寝室にて、今まではずっと右隣に寝ている長女の側を向き、長女のことだけを見て添い寝していたけれど、退院後は左隣に小さな次女もちょこんと寝ていて、『ああ、長女の一人っ子期間が知らぬ間に終わっていた』と思いました。俵万智さんの歌「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆく その連続と思う子育て」を思い出して胸がぎゅっとなる。私と長女との関係性は不可逆に変わったんだな。目の前にいる子たちとの毎日の瞬間、今のこの関係性は二度とはないもので、あっという間に移り変わっていく。その変化の速さに切なくなります。
子どもをもってからたびたび、宮沢和史さんの「Primeira Saudade」の歌詞にも共感するようになりました。生まれた子を抱っこするときはまさに「初めて抱きしめても サウダーヂ」。生まれた日はあんなに軽くて壊れそうだったのにもうこんなに重くなったんだなぁ、と思う日がすぐに来ることをもう知っているから。この重さの我が子を抱く今日はもう二度とないんだなとか、授乳するこの感じもこの日々で最後かもなとか、もうこの独特の喃語が次第に聴けなくなるんだろうなとか、子どもとの毎日にサウダーヂが詰まっている。
実際は、子どものことに限らず意識できていないだけですべての物事がどんどん移り変わっていってるのだろうけれど。
別々の人間だから当然なのですが、2人の娘は同じように10ヶ月自分のお腹の中にいて出てきたのに顔立ちも表情も声も挙動も違うのが面白くも不思議。がんの治療をしていた時から考えると、子どもを2人授かれる未来は奇跡でありギフトだなと思う。
子育てしていると自分のリズムを保てなかったり、自分のことが後回しになったり、諦めなければならないことは数え切れないほどあるし、ぐったりする日も多々あれど、それ以上に受け取っているものの豊かさよ。この滋味深い日々をどうやって、いつになったら形あるものとしてアウトプットできるだろうか。



2025年、父の三年忌のこと。



今年の秋、父の三年忌を終えた。
家族でささやかにお墓参りをしてちょっと立派なお弁当を注文し、ごく親しい親族と思い出話をした。
去年の秋、書きかけて投稿しなかった記事とともに、父を送ったときのことを振り返って書き留めておこうと思った。
◇ ◇ ◇

先日、父の一周忌を終えた。
0歳の娘も連れて、家族でお墓参りへ行った。
1年前のことを思い出す。
やがて91歳になるはずだった父は要介護5になって何年も経っていた。年々できることが減っていく。書けていた文字が書けなくなり、つかまり立ちができなくなり、喋れていた言葉が喋れなくなった。入退院を繰り返し、お世話になっていた小規模多機能ホームも通所が難しくなり、去年のあの時期は訪問介護、訪問診療、訪問看護、訪問リハビリなどに入ってもらいながら母がメインで在宅介護をし、隣家に住む私や夫も毎日訪れサポートする形を取っていた。
父はまだ喋れる頃、私たちやケアマネさんに「最後まで一生懸命頑張りたい」「自分の建てた大好きな家で暮らしたい」という希望を表明していた。本人の意思で膀胱ろうと胃ろう(厳密にはP-TEG)も造設したものの、食べることが大好きな人だったので、口からものを食べられない毎日に「こんなはずではなかった」と辛い思いをしていないか心配でもあった。
7月、訪問診療の先生から「ターミナルケアの段階に入った」と告げられ、私たちはいつその時が来てもおかしくない、と心積もりはしていた。
「もしもの時、どれくらい処置しますか?」という質問には、家族で相談し、
・自宅での痰の吸引はやる
・心臓マッサージはやらない
・次に容体が急変したら救急車は呼ばず自宅で訪問診療の先生に対処を仰ぐ
と回答。本人が喋れなくなっていたので、表情の微妙な変化で意思を汲み取りつつ処置基準を決めないといけなかった。
母曰く、去年の私の誕生日、ベッドの父に「娘もしっかり育って孫も生まれる予定だし、土地建物など家まわりのこともお父さんきちんとやってくれたから心配ないね。お父さんほんとうによくやったね」という趣旨のことを伝えたら「本当にとてもいい表情」をしていたらしい。ちょうどバタバタと食事の支度をしていた私はその顔を見逃してしまった。
その翌日の朝から容体が悪くなった。
私が口腔ケアや清拭をしたがその間も痰がひどく、吸引をやってもやっても溢れ出てくるような状態だった。痰、なのだろうか。透明でサラサラの体液のような感じだ。
そこから吸引はかなり頻回になり、容体が心配だったが夜間はいつもの通り母が看ることになった。
未明に「すぐ来て!すぐ来て!お父さんダメ!」とパニックになった母からLINE電話。隣家で飛び起きた私は超速で着替えて部屋を出た。妊娠6ヶ月だったため転ばぬように気をつけつつ階段を降りる。数分で駆けつけたが、もう父は遠くへ行く人の顔をしていた。パルスオキシメーターの値も見たことないほど低い。脈は僅かに表示されていたような気がするが、どうだっただろう。慌てていてなんだかよく覚えていない。体はまだ温かかった。
遠くに行く人の顔をした父より、その父を懸命に呼び起こそうとする母を見て寂しさと悲しさがこみ上げた。見守り役を担い父の死出を1人で受け止める形になってしまった母は「自分が2時間だけ眠ってしまった間に」と自分を責め始めた。それは違うよ、と母に伝えた。決して母のせいではないし、それを言うなら私など母に任せて眠っていたわけだし、それに何より、父がその刻を選んで旅立ったのではないか。
父は、まだ喋れる頃に私たちやケアマネさんに語った「最後まで一生懸命頑張りたい」「自分の好きな自分の建てた家で暮らしたい」という希望通りに、だんだん衰え自由がきかなくなっていく身体で、毎日母と一緒に頑張り続け、かつ自宅から旅立ったのだ。最後まで走り切ったことを労い称えられこそすれ、「私のせいで」と自責の念を持たれるのは心外なのではないかと思った。
なにしろ頻繁に酸素値を測られ酸素吸入を施されていたのだ。つらかったに違いない。もしかすると容体が悪くなってからは楽になりたいところを、ひきとめる私たちに頑張って応えていた状態だったのか?と考えたりもした。そして、死出を受け止める役が母であることは父にとっても母にとっても良かったのではないかと思った。
医師の永井康徳氏が「亡くなる時に一番大切なのは、その瞬間を見届けることではなく、本人が楽に逝けること」と書いている。
https://toyokeizai.net/articles/-/206886?display=b
確かにそうだな、と思う。私たちは、ドラマによくある絵に描いたよう死に目には会えていないかもしれないが、救急車を呼んでまた病院で…という流れではなく、自宅で静かに逝けたのはこれできっとよかったのではないかと思っている。
父が亡くなった時、火葬場が混雑していて5日間待たなければいけず、そのおかげで親しい方々とのお別れの機会も2日間設けることができたのだが、まだ夏場だったので納棺師さんに定期的にメイク直しをしていただいていた。ただ父の顔は綺麗なままほとんど変わらなかった。納棺師さんが、同じ日に亡くなり同じ日数火葬を待っている方もおられるが、状態の変化に不思議と差がある、と言った。「我々の仕事仲間でも話したりするのですが、満足して逝かれたのでは、苦しまずに逝かれたのではと思われる方は不思議と時間が経ってもお顔が崩れにくい。だからきっと思い残すことなく逝かれたのではないでしょうか」。母はその言葉にだいぶ救われた様子だった。うちのようなケースの遺族にカスタマイズされたケアの定型句だとしても、すごくありがたいなぁと思わされた。
◇ ◇ ◇
あのころ、ターミナルケアの段階で医療・介護スタッフの皆さんに支えられ、亡くなったときは葬儀社の方々や教会(キリスト教式だった)の方々に支えられ、命の終わりにこんなふうにたくさんの力を借りるのだなぁと思った。
そしてそのどれもがあたたかく真心に満ちていたように思えたのは父の人柄ゆえだったのだろうか。
どんなふうに人生を終えたいか、を考えることは、つまるところどのように生きるか、ということなんだろうけれど、さて、私ならどんな選択をしていくだろうか。
2025年の誕生日に寄せて
先日誕生日を迎え42歳になりました。
いろんな方法でお祝いくださった皆様、ありがた山です。
今年は結婚記念日のお祝いなどいろいろまとめて(?)家族でホテルのランチビュッフェへ行きました。
つかみ食べ期の子連れ、なにかとホテル側にお手数をおかけしたけどスタッフさんは快く対応&アニバーサリーケーキもサービスしてくださり、最後は会計の方にも「おめでとうございます」と笑顔でお送りいただきました。
家族でホームパーティーすることの多い記念日だけど外で過ごすのもいいなぁと。
そして、あたりまえにある家族とあたりまえに過ごす毎日が奇跡であることをあらためて考えた日でした。
私も結婚してこの4年の間だけでも、闘病や父の死、妊娠・出産などいろんなことがあったけど、きっと誰もが生きる中で予想だにしないこと、時に立ち竦むような現実を経験をするはず。
そしてそれが自分の大切な人に起きたとき、どんな言葉をかけ、何をせず、何をすれば相手にとっての本当の意味での助けになれるのかをちゃんと導き出せるようになりたい、と、そんなことを思いました。





#誕生日 #結婚記念日 #birthday #anniversary
つわり期の子育て奮闘記(1歳児編)
前回記事 第2子が生まれること - ヒロコアラカ記 で触れたのですが、この機につわり期の子育て奮闘記的なものを書いてみようと思います。といってもメモのようなものです悪しからず。
つわりのOK/NG食品
2度のつわりを通して「自分の吐き気を催すもの」の傾向を認識してみました。つわりって、普段食べないものを食べ始めたり逆に受け付けなくなったり、人によってもいろいろ差があるので不思議だなぁと思いますが、以下はふだん特に大きな好き嫌いもない私のケース。
まず定番ですがレモンなどの酸味が欲しくなり、かなり酸味のある柑橘エキスやレモン汁を炭酸水で割ってよく飲んでいました。食べやすかったのはりんご、バナナなどの果物類、あとトマトも最高(トマトソースやトマトケチャップをかけるといろいろ食べやすくなる)。バターでダメかなと思いきやクッキーはわりと美味しかったです(ただ、油分と糖分がやる気満々なアメリカンクッキーは受け付けず)。あと最強のつわり軽減アイテムはヨーグルトでした。これを発見できたのは僥倖で、一日中何かしらの形態のヨーグルトを食べていた。母がヨーグルティアで常にヨーグルトを作ってストックするのを習慣にしていたためその恩恵にあずかっていました。
対して、油物全般やパクチーなどの個性的な臭いのものはアウト。あと小松菜、レタス(かなり苦く感じた)、しめじ、あったかいごはんもダメだったし鯛も含め白身魚系がアウトになりました。鯖や鰯などは匂いでダメだし鯛は油分がダメでした。加熱したマグロなどは食べられるもののあまり得意ではありませんでした。クローヴやクミンなどの香辛料もアウトでしたがなぜポークヴィンダルーがいけたのかは謎(たぶんトマトのおかげ)。かわりに味覚が鋭くなり隠し味のちょっとした酸味や臭みがわかるようになったのは面白かったです(つわりが終わって以降だんだんその能力が失われつつあるけど)。
つわり期の育児(1歳児編)
うちは上の子のお世話のおおまかなリズムが、朝6時頃起きてごはんを作って食べさせ、外へ連れて出かけ、帰宅後お昼ごはんを用意して食べさせ、お昼寝の寝かしつけをして、起きたら見守ったり遊び相手をしたりして、夕ごはんを用意して17時半ごろに食べさせ、適宜お風呂&歯磨き後、20時頃から寝かしつけ、という流れなのだけど、これにちょいちょいおむつ替えや抱っこその他様々な要望に応える時間をさし挟みつつ、スキを見て電話を折り返す、子どもが寝ている間に仕事、…というようなことを、四六時中吐き気をこらえながら約2ヶ月間毎日やるのはなかなかの修行でした。
午前中は時々子育て支援センターを利用するのですが、つわり期は吐き気の波があるため他のママさんやお子さんに接する余裕が持てず、自分のペースで人と深く関わらずに行動できる選択肢を求めた結果、子どもを連れてドライブからのショッピングセンター徘徊、というなんとも消費主義社会の住人然としたムーヴを高頻度でかましていました。日用品の調達もできるし、カートに乗せて人のいない場所でぐるぐる回してみたりすると子どもも喜んだりなんかして。
車は後部座席だと車酔いしたものの、運転席だと大丈夫だったので助かったのですが、それでも運転中に食べづわりと思しき急な吐き気を催した時は、急遽モスのドライブスルーに寄って柑橘系の炭酸飲料やバーガーを調達し胃に入れてやり過ごしたりもしました。
ちなみに外出する気力すらない時は家で面倒を見るわけですが、子どもが散らかしたものを片付けて歩く&抱っこのインターバルトレーニングと化すため、スクワット動作がないぶん結果的に外出のほうが楽だったような気がします。
自宅保育と保活
わが家では、夫は子どものお風呂を基本入れてくれるし、 仕事がないときは家事もしてくれて通院など大事な用事がある際も時間を調整して子どもを見てくれたりするし、今は大人の食事の用意も母や夫がかなりやってくれていて、だいぶ楽な方だとは思っていたのですが、それでもつわり期はしんどかった。なので、乳児を抱えながら常にワンオペの妊婦さんはいったいどうしているのかと震えました。
上の子の出産に伴い仕事を個人事業主のもの一本にしたので、それを最低限やりつつお仕事は夫にメインで頑張ってもらい、私はしばらく自宅保育頑張るよ!と過ごしていたしそれでよかったのですが、下の子を妊娠したらさすがにこのままいくと無理そう、となり遅ればせながら保活を始めるも空きのなさに絶望。突如社会課題を肌で感じはじめ、先日の那覇市議選では最後投票先を決める際「保育士の待遇の改善により力を入れてくれそう」というのをポイントにしました。
おわりに
いずれにしろ、子どもをもってそれまで知らなかった感情をたくさん知ったし、そのなかで喜びも恐れも倍増しました。前述のようなつわり期の只中であってもやはり子どもはかわらず愛しく、しかもなぜだか他人の子どもまでもが愛しく見えるようになり、同時に世の中の恐ろしいことが(ガザが直面している現実も、子ども関連の事件のニュースも、日本の情勢も)いっそう恐ろしくなりました。自分より常に大切に思える存在ができるというのはそういうことなのかな。
今を生きる子どもたちやその先に続く世代が自分らしく健やかに生きてほしい。世界を今よりもっともっと良くしたい。
わりと備忘録も兼ねたメモなようなものになりましたが、読んでくださったあなた、ありがとうございました。
第2子が生まれること


赤ちゃんがお腹にやってきてくれまして、今妊娠5ヶ月目にあたります。
第2子、でいいのだろうか。3年前にがんが発覚したときにお別れをしなければいけなかった子がもう1人上の子の前にいたので、第3子のような気もするし、でも今の2人のどちらかは再びやってきた最初の子だったりして、と思うこともある。
子どもを授かるのは難しいかもしれないと思っていた抗がん剤治療中の時期を思い、日常が穏やかながら実は劇的に変化してきたのを感じます。主治医はじめ医療スタッフや日進月歩の医学と保険制度、心ある友人たち、そしてなにより家族の支えがあって今がある。感謝するばかりです。
上の子は今のところ元気に育っていてそれだけでもう十分ありがとう。これから生まれてくる子もどうか健やかであってほしい。
今回はつわりに耐えながら1歳児の自宅保育を続けることの大変さも体感して、世の先輩パパママたちへのリスペクトも深まりまくりました。
つわり期の子育て奮闘記を書いたら長くなってしまったので記事を分けます。
つわり期の子育て奮闘記(1歳児編) - ヒロコアラカ記
そしてもうひとつ、今年の3月、小田和奏さんとのツーマンにて来年は2月22日に開催予定(仮)とご来場の皆様へ告知がありましたが、私はその時期産褥期の可能性が高く、産婦人科の先生とも相談した結果、出演を見送ることにしました。自分が女性で、体も人生も1つしかないのだという事実を噛み締めています。
「また来年も沖縄へ来る」と言ってくださった方もいらして、私の演奏のために渡航を考えておられた皆様には申し訳ないです。自分の今の音楽活動における数少ない焦点を定めた演奏の機会だったので正直私自身も喪失感が大きかったのですが、またその次の機会を見据えることにしました。長年忘れずにそっと見ていてくださる皆様、本当にありがとうございます。そして、またよい時間ご一緒できる日を楽しみにしています。
器用じゃなくて、この数年の経験をなかなか音源にして解き放ててすらいませんが、焦らずゆっくりいこうと思います。
アラカキヒロコ
STOP GENOCIDE IN GAZA
ガザの状況が酷すぎる。
イスラエルの武器と飢餓による虐殺を私たち国際社会が止められないならばそれは、未来の私たち自身にこの事態が起こることを容認しているも同じこと。彼らは私たち自身だと感じます。
こんな世界も未来も私は嫌だ。
衣食住が足り、殺されず、安心して暮らせる世界であってほしい。ガザの人々にもその権利があるはず。
2000年代初頭から活動を知っていて、支援したり報告会にも行ったことのある「パレスチナ子どものキャンペーン」にわずかながら募金しました。
でも、このままでは十分に支援も届かないでしょう。
これはパレスチナ子どものキャンペーンの現地スタッフ、ハリールさんが語る7月31日付の記事。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/900170276.html
「外の世界の人たちは私たちを可哀想に思っているが、それはどうでもいい。それは何も変えないから。状況を変えなければならない。1カ月後ではなく、今。1週間後に生き残れる保証はどこにもない」
今日もいろいろなガザに関する報告を見た。
子どもも大人も飢餓により衰弱していて傷も治らず二次感染も発生していると。
孤児の赤ちゃんに豆の煮汁やハーブティーを飲ませている女性。母親たちも栄養失調で母乳が出ず、しかしガザには粉ミルクがもう病院にも残っていない状況。
医師たちも飢えに苦しみながら、衰弱していく子どもたちを見守るしかないと。
イスラエルは虐殺をやめて封鎖を解除せよ!
どうか食料と水と医薬品がガザの人々に届くように
#gaza
#stopgenocideingaza
ヤモリをゴキブリホイホイから救出した話
少し前に、ワモンゴキブリ対策についての記事を書きましたが、
このとき家のあちこちに設置したゴキブリホイホイを確認してみたところ、ゴキブリは1匹もかかっておらず、かわりにヤモリが合計10匹ほどかかってしまっていました……。特に小さい個体が多く、ほとんどみんな死んでしまっていました。なんてむごいことをしてしまったんだろう!ヤモリびいきの私にとってはかなりこたえました。。
ただその中に、最近かかってしまった様子の2匹がいたのでなんとか救出できないかと検索したら同じような状況の方たくさんいた!
こちらの記事を参考に救出作戦を試みました。 ブログ主さんありがとう。
ヤモリをゴキブリホイホイからはがす – てまりのユニバーサルデザイン

うちでは米油を使ってゴキブリホイホイの粘着力を弱めました。
子どもの世話をしながらだったのでちょっと時間がかかりましたが1時間弱で救出できたかな。

2匹とも救出後しばらく動かず、このまま弱って死んでしまわないか心配しましたが、15分後くらいして家の外に出したら大きいのはそそくさと草むらに去っていきました。小さいのはじっとしたままだったので、しばらくキッチンのひんやりした場所でそっとしておいたら半日後には元気に動き回っていたので、つかまえてこちらは玄関付近に放ってみました。夜になれば羽虫にありつけるかも。
ゴキブリホイホイは勿体無いけど回収しました。。

わがやでは「害虫を食べてくれるから」という意識が強いのもあってかヤモリは「ヤモちゃん」呼びされ家族みんなにわりと親しまれているし、私自身ヤモリの赤ちゃんなんかを見ると可愛いなぁ、、としみじみ思ったりするのですが、ネットを眺めていると中には逆にゴキブリホイホイでヤモリを駆除している方もいるようで、世の中いろいろですね。
ワモンゴキブリとの暮らし
※全編ゴキブリの話です。苦手な方はご遠慮ください。
ワモンゴキブリとわたし
数週間前、夜の寝室内で虫のようなものが空中を横切ったあと家具に当たる音がした。この羽音と家具に当たるときの音の質感、ワモンゴキブリに違いない。「今、ゴキの音がしたよね!」と言う私に夫はピンときていない様子だったが、ほどなくしてやはりワモンゴキブリであることが判明した。
私が小さい頃、ワモンゴキブリは夏になると今より町にずっとたくさんいて、夜が明けると道のあちこちで車に轢かれた姿が認められるほどだった。昔住んでいた家では一晩に20匹以上出没したことがある。もうそんな感じだといちいち殺虫剤を使うとリビングが殺虫剤まみれになってしまうからだと思うが、丸めた新聞紙で叩いて気絶させビニールに入れていくというスタイルの駆除法を伝授され家族総出でスパンスパンやっていた(注: 雑菌が散るため、この方法はやめろと殺虫剤メーカーやゴキブリ駆除のネット記事に記載がありました。南無)。それくらい掃討に明け暮れた時期があったため私もワモンゴキブリに対して耐性がないわけではない。
しかし、その幼少期の家で、いちど寝ぼけまなこで夜中トイレに入り手を洗ってタオルで拭いた際、タオルの間から出てきたワモンゴキブリが腕をカサカサカサーッと登り肘のところで下に落ちてスノコの間へ消えていったという事件があった。寝ぼけて油断している時に、綺麗に洗った手を拭く綺麗なはずのタオルの中からワモンゴキブリが出てきてしかも自分の体の上を一部歩いていった、という不意打ち案件が強い衝撃を残してしまったためか、急なワモンゴキブリの出没には(基本的にゴキの出没は急だが)一応鳥肌は立つし、「ひゃあっ」などと言って一回飛び退いてしまうぐらいには驚く。やはり耐性がないのかもしれない。
私もあらゆるゴキブリが嫌いなわけではない。同じゴキブリでもサツマゴキブリなどはダンゴムシみたいでかわいいとさえ思う。昔は花壇を持ち上げると慌てふためいているのをよく見たが最近あまり見ないので寂しいくらいだ。しかし、ワモンゴキブリは天井など高いところにとまっているかと思えば次の瞬間なぜか人めがけて降下してきたりする。徹底的に人目を忍ぶクモなどとも違って飛びかかってくる(飛びかかっているつもりは本ゴキはないかもしれないが)ところが油断ならず、同じ空間にいると仕留めるまで心の安寧が得られない。
虫の音
ところで、その先日のワモンゴキブリ出没事件をきっかけに自分がワモンゴキブリと他の虫の出す音の違いを確信に近いものをもって聴き分けていることに気がついた。
少し前に読んだセンス・オブ・ワンダーを思い出しながら、私にも羽音の違いなどの微細なレベルで生き物の出す音を聴き分ける力が身についていたことを認識し、ほぉ、と思った(綺麗なコオロギや鳥の鳴き声とかではなくワモンゴキブリの羽音かよとも思った)。これは間違いなく、ワモンゴキブリの出す音を幼少期から耳を澄まして聴いてきた経験からきているに違いない。彼等はいわば、決して仲良くないが対戦相手として私のある種の感覚を引き出した昔馴染みの腐れ縁なのだ。
ちなみに、夫がピンときていない様子だったのは、夫の地元でゴキブリといえばクロゴキブリとかチャバネゴキブリなはずで、ワモンゴキブリは優位種ではないからゴキブリとして想起される音がまた違うゆえかもしれない。あるいは、家に猫がいたらしいのでゴキブリはすべて有能な猫に事前に捕えられて羽音が響く機会もなかったのか。
突然の増殖とその原因
と、この記事はそんな話で終わっていくはずだったのだが、 正直その後彼等の出没頻度が無視できないレベルに達し毎晩のようにバトルする日がしばらく続いたことで、たとえ蛇足だとしてもこの騒動が一応の決着を見るまでを書かずに終わらせられるかという気持ちになってしまった。
幼少期、あの家に住んでいた頃、ワモンゴキブリの大繁殖っぷりにみんな辟易し、さすがに町内でもこれは町中でやらないと駆除できないという話になった。当時母も含め町の婦人部で集まってホウ酸団子を作り各家庭に設置したらしく、そこからワモンゴキブリの姿を見る頻度が激減した。
この家に越してからは竣工時に防シロアリ某ゴキブリ加工をしていたのもあってか、その存在を普段忘れてさえいた。それがどうだ。年月を経て某虫加工の効果は完全に消え去ったようだ。梅雨時だったからというのもあるだろうが、これまでこの家で彼等がこんなに出没したことはなく震えた。
そして増殖の理由を様々探した。最近ヤモリが若干減った気がするがそれも関係しているのだろうか。ヤモリはワモンゴキブリを食べる。ヤモリかワモンゴキブリなら私はヤモリと住んでいたい。それか、せっかく導入したロボット掃除機を最近稼働させていなくて娘の食べこぼしが床に残っているせいだろうか。もしやピーナッツが好きらしいのでうちの開封済みの柿ピーを嗅ぎつけたのだろうか。しかしどうやら考えられる一番大きな理由は、最近家のそばに生えているまあまあ大きな木の枝を一気に落としてもらったことで彼等が居場所を求めうちに移動してきたということのようだった。陽が当たるようになって蚊が減るね、などと喜んでいたらワモンゴキブリがやってくるとは夢にも思わなかった。そして、そうかお前たちは家を追われた身なのかと思うと少し気の毒な気もしたが、かといって共存する気もないのでそこは毅然とした態度で臨むことにした。
パワーアップするツール
冒頭に書いた出没事件では殺虫剤を控えめに使用するも悪戦苦闘の末取り逃し、結局対象は翌日キッチンで息絶えているのを発見された。夫がすぐに毒餌剤とゴキブリホイホイを買ってきて家中に設置してくれたものの、その後も彼らの勢いがおさまることはなかった。
ある晩は殺虫剤をかけたワモンゴキブリが子どものおもちゃケースの中に入って暴れまくってしまったため、翌朝ケースを消毒し拭いておもちゃを全部洗った。またある晩は寝入り端に派手な羽音で飛び起きたところ2匹が交尾しようとしているのが目に入った。『また増える…!!』と (とはいえ、ワモンゴキブリはどのみち雌が単為生殖できるらしい)総毛立った私はアドレナリンが分泌されるのを感じながら寝入る子どもと風邪で倒れている夫を尻目に、殺虫剤をかけてもなかなかダウンしない2匹を家中追いかけ回し孤軍奮闘の末駆除した。そうすると当然目が冴える。こうした夜のバトルで確実に睡眠不足が促進されつつあった。
すべてのワモンゴキブリよどうか我が家に住まないで下さい、と祈りながら眠るも、祈るだけでは解決しない。病み上がりの夫がまた、ドラッグストアの害虫駆除担当の店員さんに訊き新たにホウ酸団子と殺虫剤を入手してきてくれた。これがよく効いたので紹介。
・医薬品 ゴキジェットプロ 450mL | 虫ケア用品(殺虫剤・防虫剤) | アース製薬 製品情報
それまでは、フマキラーの蚊やハエにメインに効くというおそらく若干優しめの殺虫剤を使っていたので、もっとシビアなやつがよいのでは、と導入されたのが「医薬品」と書かれたこのアースの黒いゴキジェットだ。スプレーした場所をゴキブリが通るだけで死ぬらしく、逆にそれは大丈夫なのかとちょっと不安になる。実際かけてみると、あんなにしぶとかったワモンゴキブリの動きが数秒で鈍化した。さらに彼等がよく通る場所にスプレーしておいたところ、この日を境に出没がピタリと止んだ。こうして梅雨明けとともに我が家のワモンゴキブリ騒動は収束したのだった。
食物連鎖の力にのっかる
ワモンゴキブリとのバトルについてつらつら書いてきたのだが、何かを一生懸命殺している話には違いないので書きながらだんだん凹んできてしまう。
ワモンゴキブリを含め虫を潰す(ティッシュ越しとはいえ)こと、どんな方法であれ、食べるわけでもないのに(ワモンゴキブリを食べることなど想像したくもないが…!!)生きて活動していた何かの息の根を止めるのはやはり苦手であるし、苦しむ生き物を見るのはつらい。黒のゴキジェットは長く苦しませずに済むからいい、などと自分に言い聞かせてみるが、生き物を殺すときの感覚と対峙するのはやはり苦痛である。結局駆除するんだけど。
ゴニョゴニョ考えつつキッチンに立っていたら、出窓のガラスを横切る影がある。ギョッとして少し飛び退いたが、よく見るとアシダカグモではないか。アシダカグモはワモンゴキブリを食べる。アシダカグモかワモンゴキブリなら私はアシダカグモと住んでいたい。アシダカグモにわが家のワモンゴキブリをすべて託せたらいいのに。門番よろしくうちに常駐して、外からの侵入ゴキもすべて食べてくれてかまわない。
ただ、アシダカグモはゴキブリを強力に捕食し尽くしたあとは食料を探して次の家に行ってしまうらしい。
そして、ヤモリはクモを食べるらしい。アシダカグモはワモンゴキブリを捕まえるのはヤモリより上手いはずなのでできれば食べないでほしかった。
まあ、天然対虫アルソック的な都合のいい人間の夢は叶わなくとも、なにか彼等はみんなで捕食し合いつつも私たちが悩まされる虫(主にワモンゴキブリ、蚊、ハエなど)をある程度食べてはくれているわけなので、しばらくまた食物連鎖の力に任せて微妙な関係のヤモリとクモが働くのを見守ることにした。
いざとなれば、人間の方には黒のゴキジェットがあるので……。
中川政七商店の吹き寄せ(花)を食べながら
贈答用に購入していた中川政七商店の吹き寄せ(花)を、贈りそびれてしまったために食べようということに。食べてみたかったので内心嬉しい。
麻の葉模様の包装紙もシールも缶のデザインも好みで、タグもこよりで結ばれていたりと丁寧で懐かしい感じが素敵すぎる。
吹き寄せの中身も、白い金平糖がプレーンと思いきやハッカだったり、アクセントが随所にあって全然飽きない。鹿の形のもなかは、最近我が家でパンのおともになっているこしあんを詰めていただいてみました。
ちょうど先日、たまたまコテンラジオの中川政七商店さんゲストの回を聴いたばかりなのもあり、なお味わい深かった。
300年続く老舗だというのもそれで初めて知ったのだけど、岡野バルブさんや太宰府天満宮宮司さんゲスト回の話にも通じる、いわゆる老舗アトツギ社長のナチュラルにソーシャルグッドを選択できる視座みたいなものが面白かった。
どういう話かというと…。
コテンの深井さんが話されていたのだけど、アトツギ企業というのはその企業が長年営む中で築かれたたくさんのステークホルダーを擁しており、彼らとの関係性や地域社会との関係性が大事になってくるため、短期的な利益の追求ばかりでなく中長期的な地域社会への貢献にも向き合わなければならない。しかしその中長期的な、地域社会だとかステークホルダー全体への貢献が会社の未来と直結していることをアトツギ企業は肌感覚で知っているので、新興の企業にはしづらい(短期的に利益を生まなそうに見える)ソーシャルグッドの選択もポーンと決定するポテンシャルがある、というような内容(齟齬があったらすみません)。
中川政七商店さんもまさに、「日本の工芸を元気にする!」というビジョンを掲げ(中川前社長は「ビジョン」や「ミッション」という概念には違和感を示されていたけど)、あらゆる工芸の工房さんなどが存続できるようなコンサル業務も含め個別の作り手さんごとに向き合うという、短期的な利益の追求だけ考えるならば一見効率が悪そうで困難な、しかし消費者含めた全ステークホルダーにとって必要な取り組みをされている。
資本主義、大量消費主義に押されて工芸のお店や担い手がどんどん消えていくけれど、それこそが文化であり営みであり私たちの心の豊かさを知らずに支えてきた柱だったのではないか、無くして取り戻せなくなった時にそれに気づくのではないか、と感じる今日この頃。
中川政七商店の吹き寄せを食べながら、この小さなお菓子ひとつひとつを作る技術も然り、そのワザが消えないように、生活の中の選択に意識的でいたいなぁと思ったのでした。




