ヒロコアラカ記

Hiroko Arakaki / アラカキヒロコ の公式ブログ

娘が誕生したこと

2年前のこと。
このブログでがんの闘病記を書いている途中、がん発覚に伴う人工妊娠中絶の項にさしかかったところで悩み、しばらく筆を置いていました。
そうこうするうちに、手術後の化学療法(抗がん剤治療)がひと段落し、同時にお話をいただいていた仕事を社会復帰も兼ねて始めたところ、スローペースなつもりが存外忙しくなり、気がついたら月日が流れまくっておりました。
そんななか、化学療法後でもう無理ではないかと思っていた自分の体に自然妊娠でふたたび命がやってきてくれました。
この2年、助けていただいた方々、新しい命を祝福してくださった方々、そして昨年他界した父も含めそばにいてくれた、支えてくれた家族に心から感謝しています。

出産という、ありふれている割にかなりハードな経験は私にとっても印象深いものでした。一部始終を語り尽くしたい思いもなきにしもあらずですが、同時に、自分より大切な存在を得てしまったことで、この世界情勢のなか、報道の向こうで日々命を奪われる人々、子どもたちがいる現実が毎日刃物のように胸に突き刺さります。とりわけ今イスラエルが行なっているパレスチナへの虐殺行為に強く反対し、娘の生きる世界は人類がそこを乗り越えたものであれかしと願うばかり。
Instagramなどでした出産報告をこちらにも転載します。

◇  ◇  ◇ 

先日、娘が誕生しました。

難産で、娘もとても苦しかったと思うけど、一緒によく頑張り元気な産声を上げてくれました。

私の化学療法が終わってしばらく経った頃、ずっと様子を見ていたかのような絶妙なタイミングでやってきてくれた子。この子のためなら自分の命も差し出せるという親の気持ちを初めて知った。生まれてきてくれて本当にありがとう。

分娩に立ち会った真弘さん(夫)は、そばで汗を拭いてくれつつ、誕生の瞬間に号泣しつつ、片手ではしっかりGoProを回していました。
まっすぐに娘の誕生を喜び、まっすぐに私たちの体を案じ、刻々と成長し変化する娘の「今」を分かち合って一緒に育ててくれる夫に感謝しています。家族になってくれて本当にありがとう。

今回分娩を担当してくれたのは、かつて医学科を目指して一緒に勉強していた予備校時代の友人、なっちゃんでした(去年妊婦健診で診察室のドアを開けたら20年ぶりに再会してびっくりした)。
分娩後、会陰切開を縫合してもらったり胎盤を出してもらったりしながらわりとゆっくり雑談しました。なっちゃん、苗字が変わったのと立派な産婦人科医になった以外はあの頃と変わらず、しみじみ懐かしくて胸が熱くなる。そしてすごく嬉しかった。私は医者にならなかったけど、医者になったみんなに折々に助けられながら暮らしています。人生の巡り合わせは面白い(彼女と共に担当してくださった、頼り甲斐MAXなカッコいいT先生もこれまた同じ地元で家族がよく知っている方でした。世間は狭いね〜)。

この世界は直視できないくらい深い深い悲しみにも溢れているけれど、娘の生きる未来を今より少しだけでもよくするために私には何ができるだろう。
と、そんなふうに考えるようになりました。

がんのはなし #5 - 検査ラッシュの巻

※直腸がんにかかった筆者の体験記録のシリーズです。前回記事は がんのはなし #4 - うろたえながら現実を味わうの巻 

 

はじめてのCT検査

「直腸がんステージⅢ以上、かつ中絶手術をしないと治療が進められない」と告げられた私(と夫)は、1週間の心の準備期間を経たのち「進めてください」と主治医のFちゃんに返答した。
お腹の赤ちゃんと向き合った期間の話はあらためて書くことにして、今回は返答したその日からスタートした各種検査の体験について記しておこうと思う。

兎にも角にも、まずは人生初のCT検査から始まった。

病衣に着替え撮影室に向かうと、手前の部屋で専門の先生が待機しており「何かあったらすぐ行きますからね」と言葉をかけられた。心強い。
装置の台の上に横になり、左腕にルートを作ってもらう。ヨード系の造影剤(イオパミドール)を注入されるとそこから体がポカポカしていく。熱を感じるのは血管が拡張するかららしい。注入された左腕から喉や胸のあたり、次にお腹、と若干圧迫されるような感じで熱くなっていき、造影剤が静脈を辿って体に行き渡るのがわかる。
事前に「下腹部までくると、おしっこを漏らしたような感覚になるかもしれません」と言われたがなるほど本当だった。予備知識を授けてもらって本当によかった。知らなかったら「すみません!漏らしたかもです!」と慌てふためく未来もあり得た。

血の巡りというのが存外早くて驚く。そして、それはまさに心臓が休みなくポンプとして働いてくれていることの証左……
などとしみじみしていたら、残すところ最後の1枚、あと15秒ほどで終わる、というところで急な吐き気に襲われた。
「なんか気持ち悪いです」と訴えると「あと少し我慢できそうですか?」との返答。まだ限界という感じではなかったので「はい」と答えた。
しかしそのそばから吐き気はどんどん悪化、かつ息苦しくなった。
最後の1枚を撮り終えると顔も熱く、呼吸も苦しく、脈も早く、震え、さらにお腹がこわれる感覚もあり、体の各所で同時多発デモが勃発していた。稀にアレルギー的な反応が起こる場合があると聞いたが、私はその稀な人になったのだろうか。
「何かあった」ため、待機していた心強い先生たちも隣からバタバタと駆け込んできて部屋が突如騒然とした。私を囲んで言葉が飛び交い、ちょっと医療ドラマで観るERの雰囲気だ。
夫は、その様子を部屋の外の廊下のソファで見ながら何事かと肝を冷やしていた。

結局、何か処置をしてもらったのだろうか(認識できる状態ではなかったので不明)、体内デモはほどなくコンロの火を絞るように沈静化し、「あぁ、よかったよかった」的なことを呟きながら先生たちも退室。治ってみるとさっきのは何だったのかと若干狐につままれたような気分になる。
ただ、強烈な目ボタル(「ブルーフィールド内視現象」とも言うらしい)だけがなかなか消えなかった。形的にはオタマジャクシのような無数の光が強めに発光しながらまさにホタルのような動きで視界をずっと飛び交っている感じである。
そうこうしているうちに私は検査台からストレッチャーに乗せられ(厳密には、2〜3人がかりで移乗してくれようとしていたところを、それにしては申し訳ないくらい元気だったため進言し自分で乗ったのだった。ならばもはや立って歩けばいいのでは?という気もしてくるが、経験上そこで「歩けます」なんてやり出すと逆に迷惑をかけかねないので自我をなだめて大人しくストレッチャーに横たわることにした)、病衣のまま外来の処置室までガラガラと運ばれた。わけもわからぬまま私の着替えなどの荷物を渡された気の毒な夫もストレッチャーについてきた。

「調子悪くなったって?」
CT室から報せを受けたであろうFちゃんが処置室に現れたので、私は撮影中の急な不調と、今まさに飛び交っている目ボタルのすごさについて語った。Fちゃんは問題なしと判断したようで「一応、しばらく様子見ないといけないんだよね。もうちょっと休んでてください」とにこやかに言い放ち、平熱感とともに風のように一旦去っていった。
あの目ボタルは自分史上最も鮮明で印象的なものだったのだが、Fちゃんの反応から見るにどうやらとりたてて重要な症状ではなさそうである。そしてテンションが上がっていたのは多分見えていた私だけだと思う。

人生2度目のMRI検査

子供の頃右膝の手術をしたときぶりにMRI検査も受けた。
CT検査と同じ要領で装置の上に仰向けに横たわる。ここではガドリニウム造影剤(EOB・プリモビスト注シリンジ)を投与される。この造影剤は体が熱くなったりはしない。CTのことがあったのでFちゃんも様子を見に来てくれたが、今回は特に体に異変は起こらなかった。
MRIは撮影する際に工事現場みたいなでっかい音が鳴るので撮影の間はヘッドフォンを装着する。耳元では1980年代の洋楽バラードや2010年代の邦楽ポップスが予測不能な曲順で流れてくるのだが、時折曲がミュートされて「息を吸って、止めてください」などの指示が入る。
最終的に、ちょうど西野カナさんの「もしも運命の人がいるのなら」の歌詞のオチに動揺しているところで撮影が終わった。

MRIについて一番の感想は、轟音よりもむしろ「閉所恐怖症の人、心折れそう」だった。
なぜかというと、コイルという重めの板状のものを胴体に(私のは腹部の撮影だったので)乗せ、身動きできないように固定された状態で大きくて狭い筒状の装置の中に30分ほど入りっぱなしだったからだ。とある友人の顔が思い浮ぶ。彼はリタイアするかもなぁと思う。
調べたところによると最近ではオープン型MRIといって閉所感の少ないタイプの装置もあるらしい。

はじめての大腸造影(バリウム)検査

がんが直腸のどの辺の位置にあるのかを知るには大腸造影検査が有効らしく、これも人生初のバリウムを使った検査を受けた。

検査に備え腸の中をキレイにするのに、以前受けた内視鏡検査は短期集中型の手法だったのに対し、今回は「3日間かけてじっくり」のパターンだった。
センノシド(緩下剤)、マグロコール(下剤)、テレミン(坐薬)が処方され、さらに「検査用食」なるミッションが追加に。「院内の売店に売ってますので、検査前日はそれを食べてください」とのこと。

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病院から渡された紙には丁寧にも飲み物などの間食まで摂取する時間が指定されていたので、せっかくだから真面目に実行してみた。

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日頃「あ、お昼食べそびれた」なんてこともあるわりに、『この時間帯にこれだけしか食べられない』と思えば思うほど不必要にお腹が空いてしまう人間の煩悩が身にしみる。

こうして臨んだ大腸造影検査は、一連の検査で最もアクロバティックだった。
まずお尻に穴の空いた検査用病衣に着替えて撮影用の台に乗る。そして肛門から硫酸バリウム(エネマスター注腸散)と空気を注入され、「おならはしないように我慢してくださいね」と言われながら、右、左、寝返り、などと体位変換を求められ、さらに台の角度を変えられる(ので、転げ落ちないように台の左右にある手すりをつかむ)。
試されている感がすごい。「漏らしたような感覚があるかもしれないけど実際は漏らしてないので安心してください」というCT検査に比べ、こちらはリアル粗相一歩手前の状態に置かれ外肛門括約筋の筋トレをさせられているような気分だ(でも実際はX線透視下で画像にきちんと腸の状態が写るようにするため腸壁に満遍なくバリウムを貼り付けているだけだと思う)。
そんな冷や汗じみた状況ではあるが、実のところ私にとっては意外と楽しい時間だった。なぜなら自分の腸の様子がリアルタイムで観察できる画面が視界にずっとあったからだ。
身体を動かせば画面の中の大腸の位置も動いて変化し、腸内のバリウムが流れていくのが見えるのだ。面白すぎる。わざわざ腹を切り開かなくても自分の内臓の、しかも内部の様子がリアルタイムで確認できるなんてすごい(今更すぎる文明への驚嘆)。私の大腸も、図説などで見る大腸と大体同じようなポジショニングだったし、そしてやっぱりモコモコしていた。

なんでもバリウムは24時間以内に排泄しないと腸内で固まり大変なことになるらしく検査後は下剤を渡され、きちんと飲むよう念を押された。
しかし、私にとってはバリウムより凶暴だったのは腸内に注入された空気だった。本当の「お腹が張る」とはこういうことかと。痛い。座るともっと痛い。下剤を飲んでトイレに行けばすぐ風船の空気を抜くように腸が萎んで元に戻るつもりでいたが、違った。検査後しばらく、お腹をさすりながら歩いたり病院内のトイレを出たり入ったりしていた。

はじめての胃の内視鏡検査

もう、ついでに念のため胃も検査しちゃおう、ということでこれまた人生初の胃の内視鏡検査も受けた。
胃の中を見やすくする薬を飲み、ゼリー状の麻酔薬を喉に滞留させたあと飲み込まず吐き出す、というステップを経て、検査用のベッドへ案内される。口にマウスピースをつけ、鎮静薬を投与されてほどなくすると意識が遠のいた。内視鏡を入れられるあたりから記憶がない。よって、記録できることはほぼ無し。
検査は寝ている間に終わり、寝ぼけまなこで夫に家まで送ってもらった。ちなみに検査結果によると胃と十二指腸に特に問題はなかったようだ。

以上、私の直腸がん手術前に受けた一連の検査に関する記録でした。

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【関連記事一覧】
#1 - はじめに
#2 - 大腸内視鏡検査の巻
#3 - おめでた、そして告知の巻
#4 - うろたえながら現実を味わうの巻
#5 - 検査ラッシュの巻

がんのはなし #4 - うろたえながら現実を味わうの巻

※直腸がんにかかった筆者の体験記録のシリーズです。今回の記事は、人によっては心理負荷の高い内容を含む可能性もありますので、がん治療や妊娠出産にまつわる話題に触れてフラッシュバックが起こりそうな方はご注意ください。前回記事は がんのはなし #3 - おめでた、そして告知の巻

 

告知の日〜総合病院バージョン

「あれっ、一人で来たの?」
診察室のドアを開けると新主治医のFちゃん先生が言った。がんの告知から3日後、この日は私の治療のホームが総合病院に移って最初の診察日だった。
診察室にはもう一人、やわらかい雰囲気のにこにこした看護師さんが佇んでいた。「がん看護専門看護師」のHさんです、と紹介される。はじめまして。
Fちゃんが続ける。
「今後の治療の方針を決めないといけないから、夫婦の確認を取りたいんだよね」

我々夫婦の収入源は音楽業の割合が大きい。演奏仕事がコロナ禍で激減しているが、この日は夫(ベーシスト)によい仕事が入っていた。
「今日は大事な仕事だったから、行ってきて、って送り出しちゃいました。一応夫婦で話し合って私の命を優先して治療するってことで合意してるけど……」

Fちゃんは安定感と適度な明るさがあり、且つ淡々としている。もったいぶったりしない人なので早速本題へ入った。
「直腸のがんだけど、ステージⅢ以上だと思われます。初期ではない」

なんだと。

がんはステージⅠ〜Ⅳまであり、Ⅲ以降は「進行がん」だ。いったい私は何年かけてそこまで育てたのか。
曰く、数週間放っておいても大きな変化は起こらないだろうが、数ヶ月放っておけるものでもない(命にかかわってくる)。治療を進めるには、転移があるか、あるならどこか、まずCT含め早急に検査して詳細の把握が必要。
それと、CTを撮ると母体も赤ちゃんも被爆する。今回撮るCTの胎児への影響は一応2回までは大丈夫と言われているが障害などが残る可能性もある。そうでなくても治療を進める途中で流産する可能性もある。そしてそもそも患部が子宮の真裏なので、妊娠したままだと子宮の肥大で手術ができない。そのため、がんの手術は中絶手術をした上ですることになる。なので、それでいいのか確認を取る必要がある、と。
つまり、妊娠継続しながらのがん治療は難しいということだ。
なんでよりによって子宮の真裏なの、と思った。
しかし、子宮の真裏じゃなければ良かったかというとそういうわけでもない。要は、出産を待つ余裕がないほどがんが進行していたことが問題だった。

「今日は他に採血と、あと産婦人科にも行ってもらおうね。終わったらまたここへ戻ってきて」とFちゃんが言った。

 

Hさんにケアされながら

私が診察室を出ようと立ち上がると、Hさんが「少し、私とお話しましょう」と隣の部屋に案内してくれた。
那覇市立病院のような「がん診療連携拠点病院」には「がん相談支援センター」が設置されており、Hさんもそこのがん看護専門看護師だった。がんにかかった患者の心理的ケアや質問などを電話対応も含めサポートしてくれる。

「手術後に抗がん剤治療をすると、生殖機能(卵巣)がダメージを受けてしまうので、その"妊孕性(にんようせい=妊娠する力)"を温存するための選択肢があります。胚(受精卵)や未受精卵の凍結保存をするんですが、ちょうど今年から県の助成金が出ることになったんですよ。検討してみてくださいね」
そう言ってHさんは「沖縄県 がん患者等妊よう性温存療法研究促進事業のご案内」と書かれたA4のチラシと、琉球大学病院が出している「おきなわ がんサポートハンドブック」を渡してくれた。

「私も、がんにかかったんです」にこにこしながらHさんが言った。
え、と目を見開いてしまう。ちょうど私ぐらいの年齢の時に経験されたサバイバーだという。Hさん、ただでさえ菩薩のような雰囲気だが、経験者と聞くとさらに信頼感が増すものだ。心が音を立てて開く。
抗がん剤か、やんなきゃだめかな。示してもらったがん治療、妊孕性温存療法も抗がん剤も中絶手術が前提なんだな。赤ちゃんは産まれる前提で来てくれたのに』菩薩のHさんと話をするうちに気が緩んだ。「赤ちゃん、かわいそうで」とぽろっと言った途端、涙がボロボロ出てきて止まらなくなってしまった。あぁ、告知を受けた患者として泣く図、やだなぁ、しかも初対面のHさんの前で……と、めんどくさい自意識がなにやらゴチャゴチャうるさかったが無視して嗚咽した。思いのほか私は深く傷ついていたのかもしれない。Hさんは隣で「うん、うん」とただ見守っていてくれた。
私はHさんに渡してもらったティッシュで涙と鼻水を拭き、部屋を出た。マスクで顔を隠せるご時世で良かった、と思った。

まずは採血へ。
その後、仕事が早く終わった夫が病院に到着し、合流して産婦人科へ。産婦人科は、すでにFちゃんから情報が共有されており話が早かった。
エコーの確認では、赤ちゃんは4〜5週ではないかとのこと。まだ心音が聞こえていない。中絶手術をする場合は心音が聞こえてからだという。鼓動が聞こえるほど赤ちゃんが人間らしく育ってからなのか、と思うと重たいパンチを喰らった気分だった(のちに理由を調べたら、心音確認前の中絶は取り出したものの確認が難しく妊娠が続いてしまうことがあるため、とのことらしい)。
産婦人科のM先生と看護師さんたちは、事前に私の状況を話し合って検討してくれていた。心なしかここの医療スタッフはみな親身でそして仕事が早い。
ただ、やはり結論はFちゃんと同じだった。
そうなのか。本当に中絶手術しかないのだろうか。
夫と考える。
夫のいとこに血液がん治療のエキスパートのS先生がいる。Sちゃんは妊娠継続しながらこのがんを治療できる最新の医療情報を持っていたりしないだろうか。ダメ元でも訊いてみよう、と夫がメッセージを送ってくれた。

本日最後のFちゃんの診察室、今度は夫婦で入る。そして胸の内を告げた。
「二人とも、中絶して治療する方向で心算はできてます。だけど、今日の今日なので、もう少しだけ時間をもらいたい。もう一人念のため情報を訊きたい先生もいるし」
もちろん、とのことで、次の診察は1週間後に決まった。

 

下がったり、上がったり

帰宅。流石に夫婦ともども憔悴していた。
すごく悲しくて、抱き合って二人で長いこと泣いた。
こんな気持ちは生まれて初めてだった。せっかく来てくれた赤ちゃんを迎え入れてあげられないばかりか、自分にも死が臨場感を伴って迫ってきている。

意見を訊きたかったSちゃん先生からも夫に返信があった。
やはりFちゃんと同じ見解で(のちに、先輩が画像診断の専門医の方に状況を相談してくれたが、そちらも同じ)、がんの専門医含む4人の医師が同じことを言っていた。ああ、私の命を守る行動を取りたいなら現代医療では妊娠継続は無理なのだ、とようやく悟る。

夜、横になると、自分の人生が失われる恐怖にとらわれた。
遠い昔、メンタルが絶不調だった青少年期に「自分が初めから存在しなければよかった」と思い詰めた時期があった。そんなふうに自分を生きるやり方がわからず疎外感や罪悪感に苛まれるのも苦しかったが、逆に生きることの喜びを知り、幸せを感じてからそれを奪われんとする理不尽な絶望感もなかなかのものだ。
そして、未来の心配事が頭を駆け巡った。
夜に考え事をしてもロクなことがない。わかっているが、浮かんでくる。
私が死んだら、と。
老老介護中の両親は、一人娘に先立たれてこの先どんな気持ちで、どんなふうに暮らすのか。引き継ぐ予定の実家の土地やアパートの運用はどうなるのか。
夫はきっと「大丈夫、全部任せて」と言い出しそうだ。でも彼は長男だし、故郷はここ沖縄から遠く離れた群馬だし、そして強く見えるが本当はとても繊細な人だ。うちの両親や不動産のことを本当に丸投げしてよいものか。急にすべてを抱え込み、残された私の遺物のそばでどんな思いで過ごすのか。リン(愛犬)は心の支えになるだろうが、やっぱりつらいだろうな。何かよい手立てを考えなければ。
彼には私に縛られず自由に生きて、とにかく幸せでいてほしい。死ぬ間際になれば私にも「愛する人がまたできたら、その人と生きるんだよ」とか言う覚悟ができるだろうか。ていうか、自分の死に伴う問題を真面目に考えるのはこんなにも悲しいのか。つらつら。

今まで主導権を握っているとばかり思っていた人生が急にブラックホールのように謎めき恐ろしくなった。存在が不確実に、薄くなりゆく自分はまさに風の前の塵に同じ。現実は幻なのかも。この部屋も、隣の夫も、本当に春の夜の夢なのかも。
前日までの楽観的な思考に戻りたいのに戻れず、悲観の権化となり焦り散らした。

とはいえ、同時に自分の一角がそんな絶望の感覚に抵抗してもいた。
それは「生きたい」という欲求よりは、単に「腑に落ちない」モヤモヤで、『そりゃあ人はいつかは死ぬさ。でもなんか私、今のはずじゃない感じがするんだけどなぁ。おかしいなぁ……』というような根拠のないただの違和感なのだが、その往生際の悪さもまた生きたい気持ちの表れだろうか。

翌日、何か検索していた夫が突然愁眉を開き「大丈夫だ、大腸がんの患者さん、ステージⅢでも平均生存率70%だって!」と言った。彼はそう言いつつも、不安に抗っているらしく『楽観はしないぞ』的な空気を醸している。
そもそもその数字は何年生存率なのか、どんな母数の定義なのか知らないのだが、私はその言葉で『そうか、すぐには死なないんだ!』と心の奥底が楽観モードに切り変わったのだった。あんなに生気を失っていたくせに我ながら現金だなと思う。暗闇の中では小さな光が輝いて見えるのだ。
余命数週間と急に言われたらパニックだ。半年でもイマイチ死を受け入れる準備と覚悟ができる自信がない。死は急に来るとその衝撃に耐えられないが、もっとゆっくりなら話は別だ。(死のショック度)=(致命度)×(死が近づく加速度)という方程式をぼんやり考えてしまう。F=maのような。

とにもかくにも、たぶん私の死の前には思うより時間があるのだ。Fちゃんも、数週間放っておいても大きな変化はないはずと言っていたではないか。無知からくる恐怖で最悪の想定をしすぎるのはやめよう。そんなふうに思い直した私だったが、自分の体ではなく為す術のない夫は私以上に感情が揺らいでいるようだった。こんなとき心を落ち着けるには、やはり「わからない」を消していくことが有効らしく、夫はがんの情報収集に勤しみ、みるみるうちに詳しくなっていった。

変化してゆくこと

さらに翌日。
私たちは奇しくも、大腸がんで亡くなったとある先輩ミュージシャンKさんの(ゆかりの人々がかわるがわる演奏する追悼ライブ的な)お別れ会へ出席した。夫も3曲ほどベースを弾く予定だった。
私はピアノを弾きながら歌ったりする人間なので、ときどきKさんの代打でホテル演奏をしていたご縁があり、当初は聴くだけの予定だったが「My Favorite Things」だけ歌ったら、と言われ参加させてもらった。
そして、この時のステージで見えた景色はそれ以前のあらゆる演奏体験とまるで違っていた。

時を経てだいぶマシになったが、私はわりと舞台上で気が散るタイプで、『お客さん今どう思ってるかな』『間違えてメンバーに迷惑かけたらどうしよう』などと少し気を抜けばついつい邪念が湧く。
だがこの日ステージに登ると、人格が変わったように心が凪いでいた。皆が自分をどう思っているかにもう興味がなく、同時にステージ上のメンバーの様子もよく見えた。客席一人一人の存在を感じて、歌うことを味わう。お腹の赤ちゃんにも味わってほしいと思った。こんな感じで歌ってみんなと音を合わせるよ、と。そういったすべての感覚がとても自然に自分の中を通り抜けていった。要は、力が入っていなかった。

演奏中、ソロを回している時に、近くにいたサックスのAさんに「テーマに戻って終わろう」と言われたので、私はステージをつかつか横切り、カミテでベースを弾く夫にそれを伝えに行った。
いたってなんでもない、たとえば、右隣の友だちに「今週末台風みたいだからビーチBBQ延期ね」と言われ、左隣のよく聞こえなかった様子の友だちにそれを伝える、ぐらいのコミュニケーションだが、以前の私ならばこういう場面でさえ内心あたふたしていたのを思い出す。
いやはや。求められてもいない気を絶えず回す必要はなく、できることをやればよかったのだ。演奏も会話も同じだ。今までなぜよく解らなかったのだろう。

こんな事態にならないと気づかないのも何だかな、と思うのだが、死が強く意識されると大抵のことがどうでもよくなったのだった。自分にとって本当に大切なものは片手に収まるくらいしかないし、それさえあれば十分だ。

Kさんの遺影に会釈をしてステージを降りた。
この日の経験はずっと記憶に残るかもしれない。

進行がんだと告知されてからの数日間は確かにどん底だったが、ただ単にどん底というわけでもなく、その中にも一喜一憂がある。そして「それまで見えなかった景色、世界が見えるようになる感覚」は、なんというか、ありがたい。書いて字の如く「有り難い」視点を得る感覚だ。
がんになって、とんでもなくつらい時間にも直面したが、それも含めて初めての気持ちを知ることができる。すると初めて見える世界がある。そして、自分の人生に向き合うことを余儀なくされるから自分にとって本当に大事なものが見える。そういったプロセスの只中にいると「生きている」と感じる。
自分の状況を悲劇と認識したりしなかったりしているのも結局自分なのだと思う。

なんでがんになったんだろう。赤ちゃんに対する気持ちの折り合いはどうやってつけよう。などなど疑問は湧き、現実を前に心がザワついた。未知の気持ちは不安だ。でも逆に、この先何をして、何を考え、何を感じるか予測できるコントロールされきった未来だと正直つまらないし、そんなの、何しに生まれてきたかわからない。
それなら、うろたえながら好奇心を持って経験を素直に味わえばいいのかもしれないと思いながら、告知直後の濃い日々を過ごし始めたのだった。


(続く)

 

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【関連記事一覧】
#1 - はじめに
#2 - 大腸内視鏡検査の巻
#3 - おめでた、そして告知の巻
#4 - うろたえながら現実を味わうの巻

がんのはなし #3 - おめでた、そして告知の巻

※直腸がんにかかった筆者の体験記録のシリーズです。前回記事は がんのはなし #2 - 大腸内視鏡検査の巻

はじめてのおめでた

大腸内視鏡検査で腫瘍が見つかって検体の検査結果を待つ1週間、不安げな夫の横で私は『最悪の可能性もあり得る』とは思いつつもわりと楽観的に構えていた。(かつてストレス過多な時期もたしかにあったが、)もう何年も毎朝清々しく起床するくらいには基本的にストレスフリーで健康的な日々を送っているし、なにより実際元気なのだ。悪い未来ばかり想像して心配しすぎるのもまた体に良くないのでは、と思った。
とはいえ、もちろん健康には今以上に気をつけたほうがいいのは確かなので、国民健康保険証についている今年度の子宮頸がん検診クーポンも有効なうちに活用するぞ、と近所の産婦人科クリニックへ行った。

エコー検診が始まってほどなく、先生が言った。
「あれ?おめでたですね」
(・・・!)
たしかに生理は遅れていたが、よくある生理不順とばかり思っていた。

私たち夫婦は子どもが欲しかった。ただ、だからといって思い通りすんなりいくわけではないこともこの頃は実感しつつあった(こればかりは人それぞれだと思う)。私も30代後半なので妊娠率が下がっていたりするかも、などとちょうどあれこれ気になり始めた時期で、先輩に相談するなどして、大腸内視鏡検査を受ける少し前には排卵チェッカーまで買っていたのだった(そしてどうやら早くも使用期限内には使わなそうな感じになった)。

エコーの白黒モニターに映し出された子宮の中に、ぽつんと小さな黒丸が見えた。先生は「今、写真をあげますよ」と言うが早いか手元でサッと画像をプリントアウトして渡してくれた。
「まだ2週目くらいかな。もう2週間ほどすると赤ちゃんの形が見えてきますよ。2週間後にまた来てくださいね。」

初めてのことでいまいち実感が湧かず全体的に「ほぉー」と人ごとのような反応をしてしまうが、『この人望まない妊娠だったのか?』という疑義が生じかねないと思い、「よかったです。一年経って子どもができなかったら、不妊の受診しようかと思ってました」と言った。とたんに看護師さんたちの目が細くなり、安堵のような祝福のような、小さな笑い声が上がった。

帰り道を一人で歩いていて、ようやくゆっくりと感情が込み上げてきた。それは「私のところにも赤ちゃん来てくれたんだ」という感謝にも似た嬉しさと、「夫に早く伝えたい」ワクワクだった。

帰宅後、「どうだった?」と不安げな夫。腫瘍が見つかった妻が今度は子宮頸がん検診に出かけたので当然だが、市のクーポンなので検査結果は1ヶ月後に郵送でしか届かない。それはさておき、
「おめでただって」
と言うと、夫はとたんに満面の笑みになった。
「やった!!」と抱きしめてくれたかと思ったらほどなくして買い物に出かけ、妊婦が飲めるカフェインレスのドリップコーヒーやお茶系のパックなどいろいろ買いこんで戻ってきた。そして、いそいそと夕ごはんの調理を開始、出てきたのは鯛汁であった(おめでタイ)。まんが日本昔ばなしのような素直な流れだ。夫は、めちゃめちゃ情が深く素直な人なのだ。
安定期に入るまでは知らせるのは両親だけにとどめておこう、と話して双方の実家に連絡し、密かにわーいわーいと喜んだこの時の我々は、腫瘍のことすら忘れてしまえそうだった。

告知の日

しかし、そうこうしているうちに検査結果の日はやってきた。
この日は夫婦そろって診察室へ。A先生が口を開く。

腫瘍は、がんだった。

その可能性も想定していたはずなのに『え……』となった。痛覚こそないが、胸にズキンと衝撃が走る。
曰く、腫瘍マーカーがそんなに上がっていないのでそんなに進行していない可能性もあるが、とにかく大きな病院に行って、すぐ詳しく検査をしてもらってくださいとのこと。
「うちの場合、まず那覇市立病院を紹介しているけど」と先生。那覇市立病院はうちから近くてありがたい。
「誰か親戚や知り合いの先生はいたりする?」
はい、います。いとこがそこに。
では、ということで早速3日後に受診が決まった。
こうして私の癌治療ホーム、総合病院へのシフトは実に滑らかに決まったのだった。

AYA世代のがん患者になるという展開が衝撃だったのは確かだが、どうもベルトコンベアーに乗せられているような、おあつらえ向きすぎる展開で苦笑してしまった。
患者(私)、まずお膳立てされ診察を受けます、もう翌日には内視鏡検査(前回記事参照)します、ここでがんが判明し、そのとき紹介される精密検査もできる総合病院は患者の家から車で10分もかからぬ所にあり、かつそこで、患者の疾患の治療にぴったりの医師(患者のいとこ)が働いているので主治医になります。
都合のいいドラマみたいである。
裏設定もちゃんとある。患者は奇しくもそのいとこ(Fちゃん)と同じ時期に医学部を目指し受験生をやっていた。患者本人は医学の道に進まなかったが、その枝分かれした道の先に、がん患者&主治医としてセットアップされたのであった。そうきますか、シナリオライターよ。

さすがに、告知後ロビーで会計を待つ時間は夫婦揃って心許なさの極地だった。なんだか嵐の始まりに物陰で身を寄せ合う小動物のように無力な感じで、手を握り合ってじっと座るほかない。
「大丈夫だから」「最後までずっとそばにいて支えるから」とケアの言葉をかけてくれる夫は絶対に気丈に振る舞っており、この人が伴侶で私は幸せ者だと思うと同時に、結婚して1年と経たないうちにこんなことになって、かわいそうなことをしてしまったと思った。

まだ2〜3週目の赤ちゃんはどうなるのだろう。夫は、「もし、赤ちゃんかあなたの命どちらかを選ばないといけないのだったら、僕はあなたを優先する」と言ってくれたが、私は同意しつつも、内心天秤の前にあらゆる確実・不確実なものや気持ちを並べてまごまごしていた。夫と家族の気持ち。赤ちゃんの週数。自分のがんの進行具合。余命。赤ちゃんの命。命の定義。赤ちゃんがなぜやって来てくれたのか、あるいはやって来てしまったのか。私はなぜがんになったのか……。
そして、医療技術は進歩しているのだし、なんとかして妊娠を継続しながら治療する手段もきっとあるはずだ、でもいずれにしろ新主治医に訊いてみなければわからないや、というところで行き止まり、宙ぶらりんの数日が過ぎていった。

(続く)


2022.8.29 追記 鯛汁の思い出

2022.8.30 訂正 
誤)ぽつんと小さな白丸 → 正)ぽつんと小さな黒丸

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【関連記事一覧】
#1 - はじめに
#2 - 大腸内視鏡検査の巻
#3 - おめでた、そして告知の巻

『Both Sides Now』のこと(私はまだ何もよくわかっていない)

先日、シアン・ヘダー監督脚本の『CODA』(邦題: Coda あいのうた)を観た。
漁が生業の4人家族。そのうちただ1人耳が聞こえる高校生の女の子は、手話通訳者として聴覚障害をもつ父、母、兄を幼い頃から支え続けてきたが、生きがいである「歌」を本格的に学ぼうとするとき、彼女が「(聴覚障害をもつ)家族の世界」と「外の(健常者の)世界」とを繋いでいること、はざまにあることがより鮮明となっていく。そして葛藤が生まれ……
と展開していく映画なのだけど、とても素晴らしかったので観たことない方はぜひご覧ください。

劇中で彼女が歌うJoni Mitchellの『Both Sides Now』。大学時代から何度も何度も聴いてきた曲のはずが、この映画で歌詞をあらためてじっくり読んで初めて、韻はもちろん、本当にすごい歌詞だったことに今更すぎるぐらい今更気づいた。

I've looked at clouds from both sides now
From up and down
And still somehow
It's cloud's illusions I recall
I really don't know clouds at all

"雲を両サイドから見た
上からも、下からも
でもどういうわけか
思い起こすのは雲の幻影
私は雲のことをなにも知らない"

飛行機から見る雲は、アイスクリームの城やそこらじゅう羽毛の渓谷みたいに見えたけれど、今やそれは太陽を遮り雨や雪を降らせる。雲は私ができたはずのたくさんのことを邪魔した。雲を上と下の両サイドから見てきた今、じゃあ雲って何なのかと考えてみるものの、ただ雲の幻影が思い起こされるだけで、私は雲のなんたるかを全然知らない。愛も、人生も、やはり全然知らない……そんな歌だ。
いや、ほんとその通り。
あらゆる物事がそうではないか。本当によく知っていることなんて果たしてあるのだろうか、と思う。

そんなことを考えていたら、病気でステージに立たなかったJoni Mitchellが22年ぶりにNewport Folk Festivalでパフォーマンスしたというニュースが目に飛び込んだ。そしてそこで歌われた『Both Sides Now』を聴いた。

なぜだろう、視聴してたら涙が出てきてしまった。

ウクライナ(西側諸国)側とロシア側。先進国と発展途上国。男性と女性。セクシュアル・マイノリティとセクシュアル・マジョリティ。エトセトラ、エトセトラ…。
私たちは望むと望まざるとにかかわらず常に何らかのカテゴリのどちらかに属し(属さざるを得ず)、そしてその接点で生じる摩擦熱に焼かれ、あるいはどのカテゴリからも疎外されて凍え、傷ついたり、怒ったり、悲しんだり、同時に刻々と望む未来や取るべき行動に気づき続けながら暮らしている。

私はどうだろうか。
沖縄に生まれ育った。東京でも暮らした。両サイドから沖縄を見たし沖縄以外に住んだことのなかった時よりも多くの視点から沖縄を知ることができたけど、この大好きな故郷について「こうだ!」と言い切れることは逆に激減した。
最近では、進行がんにかかり、告知も手術も化学療法も経験して当事者として詳しくなったし、健康な時期もがんの時期も両サイド体験しているけれど、だからといって他のすべてのがん患者さんの気持ちを私は知らない。がんについては科学や宗教その他諸々それぞれに持論があるけれど、それのどれも私自身の体を十分には説明しないし、そもそも私は自分の体のなんたるかも、その体が病気をつくる理由もまだ十分に知らない。
がんが判明して、自分の命と妊娠初期の子どもの命の選択を迫られた末に自分の命をとったから、中絶する悲しみと痛みも知った。あなたはあなたの体を生きる権利があるから当然の選択だと言う人もいれば、殺人者と言う人もいるだろう。両サイドの声が私の中に響くけれど、そもそも「人間はどの時期から生命なのか」について万人を納得させる答えを私は知らない。もっと言えば、「神」や「人権」や「自分の命」が本当のところ何であるのかもよくわからない。

『Both Sides Now』は "I really don't know clouds (あるいは "love", "life") at all" と言う。「どっち」かとか、「これだ」とかいう結論を無理に言わない。「知らない」から。それに知ろうとすればするほど、当事者になるほど、考えるほど、物事はいっそう解らなくなるではないか。
二元論に没入し続ける傷だらけの世界にあって、「結論の出ない宙ぶらりんの状態と友だちになり、答えに惑い続ける」ことが一歩先へ進むためのキーに思える。この洗練された歌の中にまさにそのことが表現されているように感じて私は心を揺さぶられたのかもしれない。そんな「無知の知」の知性に包み込まれるような歌だと、たぶん今だからこそより強く思う。

がんのはなし #2 - 大腸内視鏡検査の巻

※注:直腸がんについてのシリーズで、しばしばうんちの話題が出てきます。お食事中に読むのはおすすめしません。

ことのはじまり

今になって考えてみると放っておいた自分が不思議なのだが、もう何年も下血と血便があった。
何年もどころか最初の下血は15年くらい前に遡る。大学時代に友人と行った音楽フェスの帰りに駅かどこかのトイレで下血して「なんじゃこりゃあああ」となった。たしかそれがきっかけで病院へ行き(クリニックと総合病院の2カ所)、結果的に「痔になりかけで、よくあること」との診断で、座薬を2週間分くらい渡されて終わった。

当初の下血は「たまに心身に負荷がかかって疲れすぎたときに」くらいの頻度だった。このフェスの時も、私の記憶が確かならば、東京から荷物をどっさり担いで苗場スキー場まで在来線乗り継ぎ往復、雨続きでテントも夜間に浸水する休息のとれないキャンプサイト3泊4日(これは自業自得だが斜面にテントを張ったのは致命的)、というけっこう過酷な状況で、まさに疲労困憊だったと言える。

その後私は、大学卒業後何度かあった家計・精神状態ともなかなかにギリギリな“貧乏暇なし期”に病院を避け始めるようになった。病院は、時間(特に総合病院は下手すると待ち時間で1日を棒に振る)とお金がどれだけかかるかわからないから恐ろしい。非正規雇用者にとっては数時間の勤務時間マイナスもかなり痛いのだ。そして、職場の定期検診以外は極力病院に行かんぞ、というメンタリティが形成された。

こういう人は他にもたくさんいるのではないか。
私は当時、音楽業のほかに平日昼間派遣社員として働いていたが、私と同じように「地方出身者、首都圏の大学へ進学、卒業と同時に奨学金の返済開始、非正規雇用、都内で一人暮らし」という条件なら、あるいはもっと厳しい状況になるケースも多いのではなかろうか。
お金がなくて病院に行けない感覚は、屈辱的だし絶望させられるものだ。(健康保険を支払っているので)定期検診が無料なのは良い。だがもし病気が発覚する可能性がある場合、時間的・金銭的に十分な余裕がなければ健診すら億劫だ。病状が悪そうであればあるほどなおさらである。なぜなら、そんなとき当人の主観としては、ただ明日から生活の維持がいっそう難しくなり日々のストレスが増すだけのように感じられるからだ。

今回自分のがんがわかったことで「体に異変を感じたらぜひ早く病院へ」とまわりに話すようになったが、「行きたくてもなかなか行けない人もたくさんいるんだよなぁ」というひっかかりが心の隅に常にある。
そんなわけで、どんなに貧しくとも病院に行き渋らずにすむような国の仕組みになりやがれコラ、という思いがあの頃からあるのだが、この話題は今は掘り下げないでおく。

病院へなかなか行かない

話は戻って、私はその後10年くらいの間に生活状況が徐々に改善し「病院行き渋り症候群」も治癒したが、同時に、当初と比較すると(特に近年)はっきりと血便が出るようになりその出血量も明らかに増えていた(と、今振り返ると気づく)。
にもかかわらず、出血といっても排便時だけの特に生活に支障のないものだったため、やはり病院に行こうという気は起こらなかった。相変わらず「どうせよくある痔」だと思っていたし、クリニックにしろ、クリニック経由の総合病院にしろ、座薬を2週間分くらい渡されて終わる感じなら時間とお金の無駄かなという結論にやはり帰着してしまうのだ。

しかし、2021年の暮れにはいよいよおなかの調子が悪いのが気になりはじめた。そして2022年に入ると「ほぼ1週間便秘ののち下痢」(人生最長の便秘期間で動揺した)、「普通便が出たとしてもなんかすごく細い」、「ずっとお腹が張っている」などの症状が続いた。そして、それ以外は至って元気だった。
とある土曜、家族で雑談時にそんな話をしたところ、私の話した内容が典型的な進行大腸がんの症状だと知る母がさっと顔色を変えた。週明けにでもどこか病院を決めて電話しようかなと思うそばから、もう母が超速で親戚のクリニックの診察予約を取ってくれたのだった(結果的に、母は命の恩人ということになる)。

その診察では尿検査と採血を行い、さっそく翌日に内視鏡検査をすることになった。

はじめての大腸内視鏡検査

そんなわけで、人生初の大腸内視鏡検査をしたので、体験を記してみようと思う。
ちなみに大腸がんの検査のファーストステップとしてはまず便潜血検査が一般的なようだが(参考:大腸がん検診:[国立がん研究センター がん情報サービス 医療関係者の方へ] )、私は既に出血があったのでそのまま大腸内視鏡検査を受けた。

まず、前日の夜に下剤(センノシド12mgを4錠)を服薬。
当日は朝8時半少し前には車でクリニックに到着。ベッドを案内され、病衣に着替える。
9時ぐらいから本格的に液体の下剤(ニフプラス配合内服剤)を飲み始める。私の場合はだいたい3時間弱ぐらいかけて、便が検査できるぐらいの透明度になるまで、たしか合計2.5リットルほどの下剤を飲み、そして合計8回くらいトイレに行った気がする。トイレの回数も記録するように言われる。

しかしながら、腸からさらさらな水分しか出ててこないのに体調不良時の下痢のような不快な腹痛もなく、便意が来てもトイレに歩く(駆け込むほどでもない)ぐらいの余裕がおおむねある、というのは新鮮な感覚だった。肛門括約筋の存在とその働きっぷりをこんなにも意識したことなどなかった。消化器官のたゆまぬ健気な働きっぷりがあまりにナチュラルすぎて、ほとんど存在すら忘れていたことが申し訳ない。急に消化器官に感謝の念が湧く。よく考えると、自分は一本の管に違いないのだ。

他方、先輩におすすめされた海外のホラードラマをスマホで観ながら最初は余裕こいて飲んでいた下剤だが、2リットルを超えたあたりからだんだん気持ち悪くなりドラマの内容がまったく頭に入ってこなくなった。以後、ただひたすら「制限時間内に残りを飲み切るトライアル」と化す。個人的には、大腸内視鏡検査のプロセス全体でのつらさのハイライトはこの時間帯だった。

「便が透明な液体になってきたら看護師や先生が合格かどうかチェックするので流さずに声をかけてくださいね」と言われる。社会的動物となって久しいため、用を足したトイレを流さないのも自分の便を見てもらうために人を呼ぶのも違和感がすごい。しかし、ここは病院だもの、と思いあっさりその自意識は捨てる。

正午過ぎだったか、検査可能な状態になって点滴ルートを作ってもらう。

ほどなく内視鏡検査開始。開始直前に鎮静薬(ドルミカム?)を静注してもらう。すぐ眠くなる。検査中の記憶は最初の数十秒以外ほぼなし。看護師さん曰く、私は「横向いてください」などの指示に答えて対応していたらしいのだが自分ではまったく覚えていない。ちゃんと応答していてよかったが、逆に変な言動をしてしまってないか不安にならなくもない。
検査後は鎮静薬が覚めるまでベッドで休み、16時前に起きた。

待つ日々はつらいよ

帰る前に診察にて、「大腸全体を見た中で、ポリープが2つ、あと腫瘍が1つありました」と先生。
『腫瘍…!』
内心ほんの少し驚いた。
腫瘍の組織を病理検査に出したから、結果が出るまで1週間ほどかかる。なので、できれば夫も同席で1週間後また来院してしてほしいとのことだった。

そして、これは特に問題ではないが小さな痔があったので、とネリザ軟膏を処方される。これって、15年ほど前のあれではないか。じゃあ、悪化している血便や下血の原因はこれではなく、今日見つかった腫瘍なのだろう、となんとなく思った。

17時半、運転して帰宅。
先生の診察内容を伝えると、夫がショックを受けて落ち込んでしまった。曰く、「旦那さんも同席ってことは、きっと悪い可能性があるからなのかも」。「悪性かどうか、まだわからないよ。結果はどうあれ、できるだけ家族の方に来てもらうように促してるとのことだから」と言ったものの、夫がふわっと不安の薄い布に包まれたのが見えるようだった。
私には「まあでも腫瘍といえども、なんとかなるでしょう!まだわからないんだから悪い想像をしてもしょうがない」という根拠のない自信(思い込み)があり、何しろ体調もわりと元気なので、そんなに心配することないさ、ぐらいに思っていた。

かつて、発熱した母が寝込み、「いつものようにカイロを貼って休んだら治る」と言うもののガチガチと歯の根も合っておらず、問答無用で病院に連れて行ったら敗血症で即入院になったことがある。別の時には、「今日起きてからずっと視界が変だ」と言うのでまた問答無用で病院に連れていったら脳梗塞で即入院になったこともある。両方ともいわば「ギリギリセーフ」だったのだが、母本人は病院に行くことにさほど乗り気でなかった。
今回は、母が慌てて私の診察予約を取ってくれたが、逆に私は深刻に捉えていなかった。

なぜ人は、自分のこととなると「そんなに大したことじゃないはず」と思いがちなのだろうか。そして、なるほどこれが「正常性バイアス」というやつか、と気付く。

結果が今日のうちにわからないというのはもどかしくつらいものだ。しかし、とにかく検査を受けるという第一歩は踏み出して、私も、そして夫も、1週間待つことになったのだった。

(続く)

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【関連記事一覧】
#1 - はじめに
#2 - 大腸内視鏡検査の巻
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やたら美味しそうな甘味を見てしまったがために

はじめに(iPadへの謝辞)

「横になって安静に」をすることになった。
では、と横になったままiPadを開く。
今更ながら、地味にiPadに感動する。横になったままこんなにも楽に何かを観ることができるなんて。画面自体が発光するので周囲の照度に煩わされることなく、また画面向きを固定できるので寝ながら眺めても読書だろうが映画鑑賞だろうが快適だ(Z世代にはポカンとされそう)。この奇跡のガジェットを、病床で本を読むのに苦労していたはずの祖父に半世紀前に渡してあげられたらどんなに役立ったことか。

甘味系ドラマ、魅惑のスイーツ

ともあれ、Netflixを開く。「休む」に相性が良さそうな作品を探したところ「さぼリーマン甘太朗」にたどり着いた。モーニング連載の漫画が原作のドラマ化作品である。サラリーマンが外回りの合間に美味しい甘味(スイーツ)を食べる話である。サボってるから休むにピッタリだし、甘いもの食べててすごく副交感神経がオンになりそうだ。
というわけで、1シーズン一気観をキメた。
毎回、尾上松也さん演じる無類の甘味好き(中毒)である主人公・飴谷甘太朗が、甘味を食しながらまるで麻薬か何か(甘いものを食べると脳内で麻薬と同じ報酬系が働くらしいのであながち遠くないかも(*1))を摂取したかのように白目を剥いてトリップし、そのあとにだいぶ正気を失った感じのサイケで自由な甘味礼賛の白昼夢(幻覚?)VFXが続く。これがかなりのくだらなさなのだが妙にクセになってしまう。
敢えて誇張してそういうキャラに描いているのだろうとわかっていても皆川猿時さん演じる上司・三宅部長のハラスメント気味な言動にはハラハラしてしまう。そんな自分の反応に、この作品が出た2017年から5年の間におけるポリコレ意識の劇的な変化を感じたりなどしつつ、
しかし何より悩ましいのは登場するスイーツ映像がすべて絶望的なまでに美味しそうだということである。フードポルノ選手権優勝である。
観終えてしばらくすると、どうにも食べられる状況ではないのに(むしろそれゆえますます)食べたい思いがばかりが募ってくる。遅効性のウイルスか。

食べたすぎて取り乱す

何軒か残念ながら閉店してしまったようだが、ドラマに出てきたのはすべて関東に実際にあるお店だ。
ドラマ内で主人公が綴っている設定のブログにも記事が残っている。

ameblo.jp

行けないのよ。私は今沖縄から出られないのよ。すごく理不尽な気がしてきた。
ああ、「紀の善」の抹茶ババロアが食べたい……!
思わず紀の善のサイトへ。
地方発送は都合によりお休み中とのこと。友人にお持ち帰りと郵送を依頼するという手もなくはないが、「あんみつや抹茶ババロアなど要冷蔵品のお日持ちは、冷蔵庫に入れていただいてお買い上げの翌日いっぱいです。」とある。691円の抹茶ババロアを、お日持ちギリギリアウトの可能性が高いのに1500円くらいかけてクール便で送ってもらうのもどうかと思う。それなら東京に行くときに店内で食べたい。神楽坂か。近くに住んでたのに今はこんなにも遠いな。「リュードパッシー」のエクレールもやはりテイクアウトできてもお日持ちは当日か翌日だろうな。「和栗や」のモンブランもイートインだけのようだ……

一回落ち着こう。
どれも鮮度が命のド生菓子なのだから、殆どオンライン販売はない(というかできないですよね)。そして絶対にお店で食べた方が美味しい。だから次に東京に行くとき絶対に食べるぞと心に誓う。あのドラマ、私に恐るべき宣伝効果を発揮しているぞ。

いや、沖縄にだって美味しい甘味処はたくさんあるさ、と思い直す。そうだよ。目下沖縄で絶品スイーツと邂逅できる喜びを噛み締めていこうではないか。

とはいえ、絶品の食べ歩きに精を出せるほどセレブではないし、頻繁な外出でコロナの感染リスクを上げるわけにもいかないし(そういえば私は先頃「基礎疾患を有する方」に仲間入りしたばかりだ)、それに飴谷甘太朗のような勢いで行脚すると糖尿病になりそうなので、
もっと、ずっと、だいぶゆっくりめで楽しめばいいや。
大幅にトーンダウンした。
甘味欲のメリーゴーランドを一周して我にかえった感じだ。

緊張あるところ、甘味あり(仮)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のこれから登場するであろう後鳥羽上皇役が尾上松也さんだと知って、烏帽子姿の後鳥羽上皇がパフェを食べながら白目を剥く画が浮かんでしまった。登場が楽しみだ。
我が家では、歯磨きや犬の散歩と同じレベルで大河ドラマを観ることが生活の一部になっている。毎週ショックを受けながらも(仁義なく人が殺されすぎて)、作品のクオリティの高さに魅了されているところだ。
ふと気づく。
私たちは大河ドラマを観るとき毎回必ず、何かしら甘味を食べている。
あのドラマの主人公・北条義時は、(ほぼ毎週発生する)主要人物の謀殺を不本意ながら推し進めないといけない不憫な中間管理職的ポジションにいるわけだが、もしかして私たちは彼への感情移入で高まってしまう緊張を、無意識に甘味で中和しバランスをとっているのだろうか……

ポン・ジュノ監督の「パラサイト 半地下の家族」を観た際、途中ハラハラしすぎて座って観ていられなかったあの時、美味しいケーキを一口食べていたらひょっとして落ち着いて観ることができたのだろうか……

と、そんなどうでもいいことを考えつつ終わります。

ちなみに、このところ何度か我が家で大河スイーツとなった美ら卵養鶏場の「濃厚たまごプリン」はとても美味しかったです。パウンドケーキもおすすめ。

churatama.base.shop


なお、何事も中庸やよし、ということで砂糖のとり過ぎにはご注意を(自戒を込めて)。

www.kanro.co.jp

 

がんのはなし #1 - はじめに

※この記事は主に大腸がんに罹患した筆者の経過や心境について書いています。


AYA世代のがん

2018年のデータによると、日本人の2人に1人がその生涯でがんと診断されるとのこと(*1)。非常に身近な疾患といえます。
とはいえ、30代女性の1人としては、子宮頚がん・乳がんは気をつけるものの(定期的に検診受けてる)他のがんのリスクを本格的に案ずるのは40歳過ぎからかな、ぐらいの感覚です(でした)。私の場合、年に2回ほど貧血のための鉄剤を処方してもらっていたのでそのたび血液検査も(特定健診とは別に)していて、一応数値も貧血気味なこと以外はすべて良好と毎回言われており、なんとなく健康なつもりでいました。

が。

なっていたのでした。大腸がんに。
まじかよ、と。
いわゆるAYA世代(=Adolescent and Young Adult、思春期・若年成人)のがん患者(*2)ということです。

いや、でもたしかに、もう何年も下血していたんだよな。
ただ血縁者にもがんは少なく、まだ心配する年齢でもなさそうだし、かつて病院で「痔になりかけで、よくあること」と言われた記憶もあいまって悠長にしていました。
ところが腸の調子が本格的に悪くなり、自分でも「これは変だぞ、そのうち病院に行こう」と思い始めて家族にそんな話をポロッとしたところ、母が私よりも先に私の診察予約を取ってくれて半ば強制的に即刻受診、内視鏡検査。それがきっかけでがんが判明したのでした(母ありがとう……)。

病状と経過

大腸(直腸S状部)のがんがステージⅢ以上の進行がんであるとわかったとき私は妊娠初期でした。しかし、「妊娠継続しながらのがん治療は難しい」という現実に直面してしまいました。
夫とも事前にいろんな場合を想定して話し合っていたし、詳しい説明を受けて状況もよく理解できたものの、聴いたその日は具体的に物事を先に進める心が決まらず、1週間の時間をもらった後で、私の命を優先する治療を行うために中絶の選択をしました。
そして5月初旬に、腫瘍とその周辺の腸+隣接するリンパ節の切除と、1箇所だけ転移が疑わしかった肝臓上部(の一部分)の切除、という2箇所の腹腔鏡手術を受け、9日後に退院しました。
術後の病理検査の結果、幸い肝臓に転移はなかったものの、がんが直腸S状部リンパ節に浸透していたためステージⅢbという診断になりました。
手術を終えたのでこれから半年の抗がん剤治療に入る予定です。

国立がん研究センターがん情報サービス
がんの冊子 各種がんシリーズ
103「大腸がん」p14を撮影

ただ、使用する予定の抗がん剤が卵巣の機能を低下させ、妊孕性(*3)にダメージを与える可能性が高いため、その前に今、妊孕性温存治療を受けているところです。

ケアについて思う

がんにかかってまず気付かされたのは、とにかく自分が回りの人たちに恵まれていたこと。信頼できてなんでも訊ける主治医と、助けてくれる家族、特に食事から何から生活を全面的に支えてくれる夫がいること。これは本当に感謝してもしきれません。
進行がんとわかって以降は(どん底まで絶望した数日以外は)物事の捉え方が変化してむしろ心の状態は以前よりもいいぐらいで、今は病気をきっかけに自分の思考や生活を見直す方に目が向いています。それも安定した環境あってのことだなと。術後の痛みや回復過程の体の不調に困ったりももちろんしますが、それがさほど大きな問題に感じられないのは、環境が、そして自分の精神が安定しているからだろうと感じています。

私本人よりも、親身になればなるほど(自分の身体ではないので)どうすることもできない現実に直面し続ける夫のほうがむしろ精神的ダメージを受けるようで、まさに家族・近親者は第二の患者(*4)であること、そしてそのケアの重要性を痛感しています。

私が今回お世話になっている那覇市立病院には(がん診療連携拠点病院なので)がん相談支援センターが設置されていて、ご自身もがんサバイバーであるがん専門の看護師さんが初回受診時からついてくれています。必要な情報の提供をしてくれるだけでなく、泣いている時にただ側にいて一緒に時間を過ごしてくれたりもするし、そのサポートは柔軟です。病院内だけでなく電話でいろいろ訊くこともできます。これは、患者本人だけでなくその家族にとっても、サポートにアクセスできる安心感が常にあるという点で大きな助けになっていると感じます。

心持ちの変化

私と夫はこの数ヶ月、感情のテーマパークに迷い込んだかのように動揺し、絶望する一方で、感動したり、不安から急速に安心したり、予期せぬ学び(発見)に驚いたりもしました。
そうしたさまざまな体験と感情はなるべくよく味わうようにしていますが(昇華できているかどうかはさておき)、それはがん発覚時にちょうど読んでいたガボール・マテ氏の著作『身体が「ノー」と言うとき』に示唆を得て「感情を抑圧しないように」過ごしてみようと思ったことも大きく影響しています。
ここで言う「感情を抑圧しない」とは、私の認識するところでは、たとえば「怒りを感じたから積極的に怒鳴る(感情の起伏を逐一他者にもわかるように表現する)」というようなことではなく、怒りを感じたら「今、自分は怒っている」、悲しいときは「今、悲しい」と自分のあらゆる感情を敏感にとらえ、そしてその感情をプラス・マイナスにかかわらず肯定したうえで存分に感じ切る、ということです。
加えて、「自分のどんな思考ががんに影響したのか」「なぜ直腸なのか」にも興味が湧いたので、がん治療と並行して心理療法のセッションも受けています。

「病が人生の転機になる」話をよく聞きますが、実際私にとっても今回のがんは感情と身体の深い相関関係について見直す契機になり、また他者や外界の捉え方に大きな気づきをもたらしてくれています。そういう意味では感謝している部分もあり、病院のベッドで寝ているときには「こんな短期間にこんなにも人生に変革をもたらしてくれるものってなかなかないのでは」とふと、自分の置かれている状況がギフトのように感じられたりもしました。

書いてみる

今回、病院のスタッフさんや親しい友人知人が何人も先輩当事者として「実は私も…」と体験をシェアしてくれたのですが、それがとても心強く、経験者の言葉がどれだけ支えになるかを身をもって体験しました。そして私自身が、手術だけでなく、CTの造影剤の副作用、子宮収縮剤の痛み、術後の腸の不安定さ、妊孕性温存治療の注射ラッシュ、その他さまざまな経験をした(まだする)ことで、この先は同じように病気に直面する方には当事者として向き合えることにも気づきました(もちろん自分が可能な範囲ではあるのですが)。

病気が発覚してからこれまで自分の心境を話す中で、夫や、先輩や、リハビリ担当の理学療法士さんなどから「それ(経験や気持ち)、どこかに書き残しておいたら?」と同じような言葉をもらい「それもいいかもな」と思ったのもあって、こうして書いてみています。(個人的には公にしておいた方が気が楽というのもあります。)

とにかくがんと向き合うことになって以降の様々なことを自分の考えの整理やメモも兼ねて記事を分けつつ書ける範囲で書く予定ですので、興味のある方は(読んで差し支えのない心理状態であれば)読んでみてください。

ちなみに現在、オファーいただくお仕事の中にもできるものはあるし(治療のタイミングやそれに伴う体調との兼ね合いでできないこともありますが)、わりとなんでも食べ、もっと運動・筋トレをすべしと指導を受け、前とほぼ変わらない生活をしているぐらいには私は元気です。

余談ですが、琉球大学病院がんセンターの「地域の療養情報 おきなわがんサポートハンドブック 〜支え合う、あなたと大切な人たちのために〜」は、お金のことも含めがんにかかってしまった場合の総合的な情報が載っていて助かりました。こういった冊子・サイトは全国の都道府県にもわりとあるようです。(地域のがん情報:[国立がん研究センター がん情報サービス 一般の方へ]

*1:最新がん統計:[国立がん研究センター がん統計]

*2:小児・AYA世代のがん罹患:[国立がん研究センター がん統計]

*3:日本がん・生殖医療学会WEBサイト | 妊孕性/妊孕性温存

*4:がん治療~家族のサポート 家族は「第二の患者」|がんを学ぶ ファイザー

引っ越してきました。

公式ブログの場所を引っ越しました。今後はここで書いていこうと思います。
昔のブログ記事について、ここに移管してから消すか、あるいはそのまま置いておくか、などの処遇は考え中。

ひとまずリンクを貼っておきます。
note https://note.mu/hirokoarakaki(2014.09〜2021.12)
Tumblr https://hirokoa.tumblr.com/ (2012.05〜2021.12)
JUGEM http://charles.jugem.jp/ (2009.02〜2016.05)

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その他、稼働していたりしなかったりするいろんなもののリンク(私自身の備忘録)。
オフィシャルサイト https://hirokoarakaki.com/
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Hiroko Arakaki / アラカキヒロコ