ヒロコアラカ記

Hiroko Arakaki / アラカキヒロコ の公式ブログ

『Both Sides Now』のこと(私はまだ何もよくわかっていない)

先日、シアン・ヘダー監督脚本の『CODA』(邦題: Coda あいのうた)を観た。
漁が生業の4人家族。そのうちただ1人耳が聞こえる高校生の女の子は、手話通訳者として聴覚障害をもつ父、母、兄を幼い頃から支え続けてきたが、生きがいである「歌」を本格的に学ぼうとするとき、彼女が「(聴覚障害をもつ)家族の世界」と「外の(健常者の)世界」とを繋いでいること、はざまにあることがより鮮明となっていく。そして葛藤が生まれ……
と展開していく映画なのだけど、とても素晴らしかったので観たことない方はぜひご覧ください。

劇中で彼女が歌うJoni Mitchellの『Both Sides Now』。大学時代から何度も何度も聴いてきた曲のはずが、この映画で歌詞をあらためてじっくり読んで初めて、韻はもちろん、本当にすごい歌詞だったことに今更すぎるぐらい今更気づいた。

I've looked at clouds from both sides now
From up and down
And still somehow
It's cloud's illusions I recall
I really don't know clouds at all

"雲を両サイドから見た
上からも、下からも
でもどういうわけか
思い起こすのは雲の幻影
私は雲のことをなにも知らない"

飛行機から見る雲は、アイスクリームの城やそこらじゅう羽毛の渓谷みたいに見えたけれど、今やそれは太陽を遮り雨や雪を降らせる。雲は私ができたはずのたくさんのことを邪魔した。雲を上と下の両サイドから見てきた今、じゃあ雲って何なのかと考えてみるものの、ただ雲の幻影が思い起こされるだけで、私は雲のなんたるかを全然知らない。愛も、人生も、やはり全然知らない……そんな歌だ。
いや、ほんとその通り。
あらゆる物事がそうではないか。本当によく知っていることなんて果たしてあるのだろうか、と思う。

そんなことを考えていたら、病気でステージに立たなかったJoni Mitchellが22年ぶりにNewport Folk Festivalでパフォーマンスしたというニュースが目に飛び込んだ。そしてそこで歌われた『Both Sides Now』を聴いた。

なぜだろう、視聴してたら涙が出てきてしまった。

ウクライナ(西側諸国)側とロシア側。先進国と発展途上国。男性と女性。セクシュアル・マイノリティとセクシュアル・マジョリティ。エトセトラ、エトセトラ…。
私たちは望むと望まざるとにかかわらず常に何らかのカテゴリのどちらかに属し(属さざるを得ず)、そしてその接点で生じる摩擦熱に焼かれ、あるいはどのカテゴリからも疎外されて凍え、傷ついたり、怒ったり、悲しんだり、同時に刻々と望む未来や取るべき行動に気づき続けながら暮らしている。

私はどうだろうか。
沖縄に生まれ育った。東京でも暮らした。両サイドから沖縄を見たし沖縄以外に住んだことのなかった時よりも多くの視点から沖縄を知ることができたけど、この大好きな故郷について「こうだ!」と言い切れることは逆に激減した。
最近では、進行がんにかかり、告知も手術も化学療法も経験して当事者として詳しくなったし、健康な時期もがんの時期も両サイド体験しているけれど、だからといって他のすべてのがん患者さんの気持ちを私は知らない。がんについては科学や宗教その他諸々それぞれに持論があるけれど、それのどれも私自身の体を十分には説明しないし、そもそも私は自分の体のなんたるかも、その体が病気をつくる理由もまだ十分に知らない。
がんが判明して、自分の命と妊娠初期の子どもの命の選択を迫られた末に自分の命をとったから、中絶する悲しみと痛みも知った。あなたはあなたの体を生きる権利があるから当然の選択だと言う人もいれば、殺人者と言う人もいるだろう。両サイドの声が私の中に響くけれど、そもそも「人間はどの時期から生命なのか」について万人を納得させる答えを私は知らない。もっと言えば、「神」や「人権」や「自分の命」が本当のところ何であるのかもよくわからない。

『Both Sides Now』は "I really don't know clouds (あるいは "love", "life") at all" と言う。「どっち」かとか、「これだ」とかいう結論を無理に言わない。「知らない」から。それに知ろうとすればするほど、当事者になるほど、考えるほど、物事はいっそう解らなくなるではないか。
二元論に没入し続ける傷だらけの世界にあって、「結論の出ない宙ぶらりんの状態と友だちになり、答えに惑い続ける」ことが一歩先へ進むためのキーに思える。この洗練された歌の中にまさにそのことが表現されているように感じて私は心を揺さぶられたのかもしれない。そんな「無知の知」の知性に包み込まれるような歌だと、たぶん今だからこそより強く思う。